ホリショウのあれこれ文筆庫

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第972話 堀尾金助と母の裁断橋

序文・母の思い

                               堀口尚次

 

 堀尾金助は、安土桃山時代の武士。天正元年出生。堀尾吉晴〈豊臣政権三中老の一人〉の子、若しくは堀尾方泰の子とされるが続柄には異説がある。天正18年の豊臣秀吉小田原征伐に吉晴と共に参戦したが、6月12日に陣中で死去した。享年18。死因については病死説と戦死説があり、前者が有力とされるが、信頼に足る記録はなく未詳(みしょう)。弟の忠氏が吉晴の継嗣(けいし)となった。

 金助については、熱田〈現・愛知県名古屋市熱田区裁断橋を架け替えた際に付けられた金助実母の文である擬宝珠(ぎぼし)銘文にその名が見える第二次世界大戦後には、この裁断橋の擬宝珠銘文を基にした物語が多く創作された。擬宝珠とは、伝統的な建築物の装飾で橋や神社、寺院の階段、廻縁の高欄〈手すり、欄干〉の柱の上に設けられている飾りである。ネギの花に似ていることから「葱台(そうだい)」とも呼ばれる。

 裁断橋は、愛知県名古屋市熱田区にあった橋である。日本百名橋の番外に選ばれた。裁断橋は宮宿の東の外れを流れていた精進(しょうじん)川に架けられていた橋だが、擬宝珠に彫られていた銘文でその名を知られていた。なお、永正6年の『熱田講式』には既にその名が見られるという。

 擬宝珠の銘文には、天正18年の小田原征伐で死去した堀尾金助という18歳の男性の菩提を弔うべく、その母親が33回忌に息子を最後に見送った橋の架け替えを行ない、その供養としたことが記されている

 伝承によっては、母親は橋を2度かけ直しているとするものもある。息子の33回忌の橋の架け替えは2度目のことであったが、それを見ること無く亡くなったため、その養子堀尾類右衛門が元和8年に架け替えたとされ、この際に「息子〈金助〉の供養のためにこの書き付けを見る人は念仏を唱えてほしい」との母の願いが擬宝珠に刻まれたとされる。この銘文は日本女性三名文のひとつにかぞえられている。※現代語訳は以下の通り。

 『天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、逸岩世俊〈金助の法名〉と、後の世の又後まで、此書付を見る人は念仏申し給えや。三十三年の供養也』

 しかし、擬宝珠以外にこれらの伝承を裏付ける同時代史料が存在しないことから、擬宝珠に刻まれている内容以上のことは後世の創作とする見方もある。

 明治37年に橋の架け替えが行なわれたが、明治43年に行なわれた川筋の付け替えに伴い、橋があった辺りも大正15年に埋め立てられている。しかし擬宝珠のある4本の橋柱は路傍にそのまま残された。

 大正時代まで熱田区内には精進川が流れ、東海道には裁断橋が架けられていた。また、精進川を三途の川と見立て、橋のたもとには死者の衣服を奪い取る奪衣婆(だつえば)をまつる姥堂があった。橋の名の由来には、死者を閻魔大王が裁断する場という説もあります。

 昭和20年3月の名古屋大空襲によって周辺の多くが焼失したが擬宝珠は焼失を免れ、昭和28年になって橋のたもとにあって戦災で焼失して建て直された姥(うば)堂境内の池に規模を縮小して再建された。姥堂は平成5年に再度建て直され、裁断橋があった池も埋められたため、往時の様相は既に無い。なお、橋に付いていた擬宝珠は名古屋市文化財に指定されているが、損傷の問題から名古屋市博物館に収蔵されており現地にあるものは複製となっている。

 なお、堀尾氏の城跡でもある愛知県丹羽郡大口町の堀尾跡公園には、五条川を跨ぐ形でかつての裁断橋が焼失する前の姥堂の山門と合わせて再現されている。

 堀尾跡公園の近くには、桂林寺があり「堀尾金助と母の供養塔」がある。またすぐそばの八劔神社に「堀尾屋敷跡」があり、島根県松江市にある松江城を築いた堀尾吉晴〈金助の父〉の生誕地といわれる。別名・御供所城(ごくしょじょう)跡という城址でもある。また隣接する住吉神社には「堀尾金助と母の像」もある。