堀口尚次
堀川辰吉郎、明治24年 - 昭和41年は、日本の実業家、大アジア主義者、世界連邦主義者。俗に出口王仁三郎〈新宗教「大本」の二大教祖の一人〉の黒幕、大アジア主義者と称する怪シナ浪人などと呼ばれ、西園寺公望や明治天皇の御落胤と称して「昭和の天一坊」とも呼ばれた人物。
明治45年/大正元年当時、活動写真〈無声映画〉の九州全域への配給会社を経営していた。昭和9年には映画貸附販売業を営んでいた。出自や育ち、その他経歴については釈然としないが、「明治天皇の落とし子」、「井上馨の手で、臣籍降下され、頭山満の玄洋社に入れられる」と伝える資料もある。
一方、「福岡の鉱山王・井上重蒼の妾腹の子として生まれ学習院に入学したが17歳の時同級生を殴打して退学され郷里で妻をめとったが落ちつかず」、「25歳の時満洲に渡り上海、支那を数年来放浪して内地へ戻り活動の弁士等をやつてゐる内に写真の撮影を覚え」、やがて写真撮影の仕事を通じて児玉秀雄などの名士たちに取り入って20万~30万円の資産を蓄え、これを資金として詐欺を繰り返し、西園寺公望の落胤と称して帝国ホテルに泊まりこみ豪遊しているところを警視庁に連行された、とする新聞報道もある。
この報道によると、堀川は齋藤実首相や小山松吉法相など名士の名を利用して内地や朝鮮半島や満州で詐欺を働いていた「昭和の天一坊」であるという。天一坊事件とは、明治時代中期、山伏の天一坊改行が江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の落胤を称して浪人を集め、捕らえられ獄門になった事件。
明治天皇の落胤とも噂されたが、堀川自身は公の場でそのように名乗ったことはないとされている。後に堀川の娘と名乗る中丸薫によって、堀川が明治天皇と女官の「千草任子」の間に出来た隠し子という記事が雑誌に掲載された。
頭山満を頼って日本に亡命していた孫文が帰国の途につこうとしていた際、堀川は日本の学校にいられなくなったため、13歳のある日、頭山の依頼で孫文に托され、戴(たい)天(てん)仇(きゅう)に連れられて中国に渡ることとなった。このとき孫文が周囲に対して堀川を「日本の若宮」と紹介し、「日本が我らに若宮を托したことは、わが革命軍に対する日本の賛意の証」と主張して政治宣伝に利用したことが、堀川をして明治天皇の落胤とする風説の根拠の一つとなっている。