ホリショウのあれこれ文筆庫

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第515話 JR東海八事球場跡

序文・センバツ発祥の地

                               堀口尚次

 

 JR東海八事(やごと)球場は、かつて愛知県名古屋市昭和区にあった野球場。東海旅客鉄道JR東海〉が運営管理を行っていたが、平成2年限りで閉鎖、撤去された。

 大正11年、当時の名古屋市中区広路町地内に、中区末広町で運動用具店を営んでいた富豪の山本権十郎が私費を投じて独力で建設した。総面積は約2,800坪、当時の収容人員は約2,000人。左翼側が狭く、右翼側が広いという変則的なフィールドだったものの、名古屋市内では初の本格的な野球場だった。野球場名は山本の姓から山本球場命名された。また周辺には山本球場の他にも、市内の学校や企業が野球場やグラウンドを設けていた。

 大正13年、選抜中等学校野球大会〈現・選抜高等学校野球大会〉の第一回大会が開催された。これは当時の大阪毎日新聞〈現・毎日新聞社〉の意向によるもので、中京圏の野球ファンの要望に応えるという目的と、夏の全国中等学校優勝野球大会〈現・全国高等学校野球選手権大会〉で関西地方の学校の優勝確率が高いことが、関西の風土に関係あるのか〈或いは関西の球場で開催される地元で、移動による負担が少ないことが影響しているのか否か〉を確認するという意味合いがあった。全国から代表校8校が山本球場に集い、初代優勝の栄冠は香川県高松商業学校〈現・香川県立高松商業高等学校〉に輝いた。また問題の関西勢は3校出場したが、合計1勝にとどまっている。しかし、翌年の大会からは選抜大会も阪神甲子園球場での開催となり、以後山本球場では旧制中学野球・高校野球の全国大会本大会が開かれることはなかった〈昭和25年の愛知国体も鳴海球場が会場だった〉。

 昭和11年7月に職業野球・名古屋大会〈トーナメント方式 第1回「全日本職業野球選手権大会」の予選大会の一つ〉が開催された。7月15日には東京巨人軍〈現・読売ジャイアンツ〉と大阪タイガース〈現・阪神タイガース〉が公式戦初対戦。8-7でタイガースが勝利した。しかし観覧設備が狭隘過ぎたのが災いし、大会5日間で入場した観客は僅か8,970人にとどまった。当時阪神の主将だった松木謙治郎が、後年その設備の悪さについて「グラウンドは狭い上に地質が悪く、不規則なバウンドが多かった。スタンドもなく、観客はゴザをいて観戦していた」と述懐したほどで、観客動員が望めず収益性も悪かったことから、以後はプロ野球においても使用されることはなくなった。

 この間、昭和2年に愛知電気鉄道〈現・名古屋鉄道〉が、愛知郡鳴海町〈現・名古屋市緑区〉に沿線開発の一環として鳴海球場を完成させたことから、これらアマチュア・プロの試合は鳴海球場で開催されるようになった。

 昭和22年、運輸省国鉄名古屋鉄道局〈のち日本国有鉄道名古屋鉄道管理局〉が山本球場の用地を取得し、同鉄道局の硬式野球部〈現・JR東海軟式野球部〉の練習場として使用し始め、同時期から所在地を冠して国鉄八事球場と呼ばれるようになった。

 享栄商業高等学校〈現享栄高等学校〉また硬式野球部が専用グラウンドがない時代、八事球場を借りて練習していた。享栄商業時代の金田正一の投球練習を国鉄職員の球場管理人が見て驚き、結成されたばかりのプロ野球球団であった国鉄スワローズの球団幹部に金田のことが報告されて当時の西垣徳雄監督が金田のスカウトに乗り出すこととなった逸話もある。

 昭和62年の国鉄分割民営化の際、名古屋市を中心とする地域はJR東海に移管。八事球場は引き続きJR東海野球部が練習場として使用した。しかし既に老朽化・狭隘化が著しく、また周辺も宅地化し改修や拡張が行えないことから、JR東海の練習グラウンドは瀬戸市に移転し、八事球場は平成2年を以って閉鎖、撤去された

 跡地にはその後マンションなどが建設されたが、日本高等学校野球連盟毎日新聞社などの協力により、平成4年、かつての本塁付近の位置にセンバツ第1回大会の開催地であることを示すモニュメントを有する「八事球場メモリアルパーク」が設けられた。

 私は過日「八事球場メモリアルパーク」を訪れ、大正時代から野球を愛した地元の方々の御苦労に敬服すると共に、マンションが立ち並ぶ現地で、遠い昔に響いたであろう木製バットがボールを打つ音に耳を傾けてみた。