ホリショウのあれこれ文筆庫

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第477話 旧国鉄殉職者慰霊碑を訪ねて

序文・光りあるところに影がある

                               堀口尚次

 

 私が住む愛知県東海市知多半島の付け根に位置するが、名古屋鉄道がメインとなり、JRの利用はまずない。今回はJR武豊線の終点駅にある「高橋煕君之像」と名古屋市のJR大曽根駅にある「国鉄殉職者慰霊碑」を訪ね、その遺徳を偲んだ。

 「高橋煕君之像」は、『昭和28年9月25日に襲来した台風13号の影響で、武豊駅と一つ手前の駅の間で防波堤が決壊して高潮が発生、線路が流失した。この異変を、進行中の当駅行き上り列車に知らせるべく、武豊駅駅手の高橋煕が発煙筒を手に東成岩駅方面へ走り出した。上り列車の機関士は前方に振られる発炎筒に気付き、水際まで約400メートル程度のところで非常停止した後、東成岩駅まで後退したため、列車の乗客約30名および乗務員は難を逃れた。しかしながら高橋は武豊駅に戻ることはできず、翌日午後に遺体で発見されたが、その際にも両手で信号灯の容器をしっかり抱いた状態であった。この一件は全国に報道され、殉職した高橋の行動は「国鉄職員の鑑」として称賛された。その功を記念し将来に残すため、日本全国の国鉄職員と小中学生からの募金などにより胸像が建立された。』とある。

 「国鉄殉職者慰霊碑」は、『昭和20年4月7日の空襲からお客様を救い、殉職した当駅職員30名の霊を悼み建立したものです。新聞報道によれば、空襲の直前に機転を利かせた助役が行き違い待ちで停車中だった列車を勝川駅まで移動させ、乗客約100人の命を救ったことが後から判明したとか。大曽根駅付近は航空機生産の中心地で、軍需工場があり太平洋戦争の末期、昭和20年4月激しく空襲を受けました。この時、国鉄大曽根駅の駅員が乗客を勝川駅に送り避難させた後、急いで防空壕に避難したものの、そこが直撃されて30人が即死。昭和21年、霊を偲んで建てられた「慰霊碑」です。石碑の裏には犠牲になられた30人の氏名が刻まれており、内12人は女性です。』とあった。

 名鉄知多半田駅から乗り換えたJR武豊線半田駅には、蒸気機関車が展示してあり、市営の鉄道資料館も併設されていた。また武豊駅から徒歩15分ほどのところに、日本でもここにしか現存しないタイプの「転車台」もあった。なんとこの転車台は平成になってから地元の小学生が、郊外の社会科授業の時に発見したというから驚いた。旧国鉄の歴史に、少しだけ触れた訪問となった。