ホリショウのあれこれ文筆庫

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第478話 日露戦争とポーツマス条約

序文・アメリカのおかげ

                               堀口尚次

 

 日露戦争において終始優勢を保っていた日本は、日本海海戦戦勝後の1905年〈明治38年〉6月、これ以上の戦争継続が国力の面で限界であったことから、当時英仏列強に肩を並べるまでに成長し国際的権威を高めようとしていたアメリカ合衆国に対し「中立の友誼(ゆうぎ)的斡旋」外交文書を申し入れた。米国に斡旋を依頼したのは、陸奥国一関藩〈岩手県〉出身の駐米公使・高平小五郎であり、以後、和平交渉の動きが加速化した。

 講和会議は1905年8月に開かれた。当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない」と主張していたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが日本としてはこれ以上の戦争の継続は不可能であると判断しており、またこの調停を成功させたい米国はロシアに働きかけることで事態の収拾をはかった。結局、ロシアは満州および朝鮮からは撤兵し日本に樺太の南部を割譲するものの、戦争賠償金には一切応じないというロシア側の最低条件で交渉は締結した。半面、日本は困難な外交的取引を通じて辛うじて勝者としての体面を勝ち取った

 この条約によって日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、軍事費として投じてきた国家予算4年分にあたる20億円を埋め合わせるための戦争賠償金を獲得することができなかった。そのため、条約締結直後には、戦時中の増税による耐乏生活を強いられてきた国民によって日比谷焼き討ち事件などの暴動が起こった。

 ポーツマス条約を締結したのは外務大臣小村寿太郎だが、当時の日本の世論は、連戦連勝の報道を得て、多額の賠償金や領土の割譲を熱狂的に叫んでおり、7月8日、小村が日本を出発する際、新橋停車場に集った群衆は大歓声を上げてこれを送ったが、小村はそばを歩く桂首相に「帰国する時には、人気は全く逆でしょうね」と語ったといわれる。井上馨は、小村に対し涙を流して「君は実に気の毒な境遇に立った。いままでの名誉も今度で台なしになるかもしれない」と語ったといわれている。小村は、戦勝の興奮に支えられた世論を納得させることがいかに難しいことなのかをよく知っていた。アメリカ大統領ルーズベルトの斡旋により、ニューハンプシャー州ポーツマスにおいて調印した。

                   ※前列右が小村寿太郎