ホリショウのあれこれ文筆庫

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第924話 敵に塩を送った上杉謙信

序文・義の武将

                               堀口尚次

 

 上杉謙信は、戦国時代に越後国〈現在の新潟県〉など北陸地方を支配した武将・大名。江戸時代から現代に至るまで私利私欲に拘泥(こうでい)〈こだわる〉しない「の武将」という印象が強い。一方で、現代では利害を冷徹に判断しながら、領土拡大に努力した戦国大名として捉える研究者も多い。謙信は武神毘沙門天の熱心な信仰家で、本陣の旗印にも「」の文字を使った。また、三宝荒神を前立に使った変り兜を所有していたとされる。

 武田信玄との生涯に亘る因縁からか、それが転じて二人の間には友情めいたものがあったのではないかと現在でも推測されることがある。信玄は永禄10年に同盟国の駿河今川氏真との関係が悪化し塩止めを受けているが、武田氏領国の甲斐・信濃は内陸のため、塩が採れない。これを見越した氏真の行動であったが、謙信はこの氏真の行いを「卑怯な行為」と批判し、「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろう」といって、信玄に塩を送ったという。この逸話に関しては信頼すべき史書の裏付けがなく、後世の創作ではないかとも考えられているが、少なくとも謙信が今川に同調して塩止めを行ったという記録はない。

 この時、感謝の印として信玄が謙信に送ったとされる福岡一文字の在銘太刀「弘口」一振〈塩留めの太刀〉は重要文化財に指定され、東京国立博物館に所蔵されている。『日本外史』では信玄の死を伝え聞いた食事中の謙信は、「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」と箸を落として号泣したという。『関八州古戦録』でも同様の話を伝えられている。また、『松隣夜話』では信玄の死後3日間城下の音楽を禁止した。理由には「信玄を敬うというより武道の神へ礼を行なうため」と挙げている。「信玄亡き今こそ武田攻めの好機」と攻撃を薦める家臣の意見を「勝頼風情にそのような事をしても大人げない」と退けている。

 一方で上記の逸話は後世の創作の可能性もあり、謙信は信玄をかなり嫌っていたとも伝えられている。信玄が父親を追放したり、謀略を駆使して敵を貶(おとし)めたりするのは謙信に言わせるところの道徳観に反しており、謙信は信玄の行いに激怒したという。信玄との利益を度外視した数々の闘争は、謙信が純粋に信玄を嫌っていたことが原因だという説もある。