ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1055話 信楽高原鐡道列車衝突事故

序文・起こるべくして起きた事故

                               堀口尚次

 

 信楽高原鐵道列車衝突事故は、滋賀県を走る信楽高原鐡道信楽線において発生した列車衝突事故。信楽高原鐵道の車両と、直通運転で乗り入れていた西日本旅客鉄道JR西日本の車両が正面衝突した

 1991年5月14日10時35分頃、滋賀県甲賀郡信楽町〈現・甲賀市信楽町〉黄瀬の信楽線小野谷信号場 - 紫香楽宮跡駅間で、信楽発貴生川行きの上り普通列車〈SKR200形4両編成〉と、JR西日本が運行していた京都発信楽行き下り臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」〈キハ58形3両編成〉が正面衝突した。先頭車のキハ58形は前部が押し潰された上に全長のほぼ1/3が上方へ折れ曲がり、SKR200形は先頭車が2両目とキハ58形とに挟まれる形で原形を留めないほどに押し潰された。JR西日本側乗客の30名、信楽高原鐵道側乗員乗客の12名〈うち運転士と添乗の社員が4名〉のあわせて計42名が死亡、直通下り列車の運転士を含む614名が重軽傷を負う大惨事となった。衝突した臨時快速列車は乗客で超満員の状態〈定員の約2.8倍〉だったことから、人的被害が非常に大きくなった。

 発端は、信楽駅から貴生川駅行きの上り普通列車534D列車を発車させるため、信楽駅の制御盤で出発信号機を出発現示〈青信号〉にしようとスイッチ〈テコと呼ばれる〉を操作したにもかかわらず、停止現示〈赤信号〉のまま変化しなかったことである。このとき下り列車が正しく信楽駅に到着しているにもかかわらず、下りの運転方向表示が点灯したままだった。分岐器を調べたが線路は開通しており、信号トラブルを疑ったため信楽高原鐵道は保守要員として詰めていた信号システム会社の社員に点検を命じた。それとともに、代用閉塞である指導通信式の採用を早々に決定。小野谷信号場で対向列車であるJRからの直通列車と行き違いを実現すべく、誤出発検知装置を頼りにして、指導員となる社員を添乗させ普通列車を11分遅れの10時25分頃に発車させた。この列車には指導員役の社員の他、当日の午後から安全管理などの査察に来る予定だった近畿運輸局の係官を貴生川駅まで出迎えに行こうとした常務、おそらくは指揮を執るべく乗り込んだ業務課長、夜勤明けで自宅に帰る予定だった運転士の計4人が乗り込んだ。事故で本務運転士も含め、添乗した4人全ての計5名が死亡し、信楽高原鐵道の乗務員で生存したのは車掌1名のみだった。

 信楽高原鐵道第三セクターで、経営陣が滋賀県庁や町役場の出身者であったことから鉄道そのものに対する技術的知識は全くなく、運行保安に対する意識や知識も欠如していた。開催直前に非常勤に退いていた鉄道主任技術者が退職し、その補充要員をスカウトすることも、社内から信号システムの技術者を迎えることもなく、信号システム施工業者の技術者を会期中に駐在させる対応で済ませるほどに信楽高原鐵道には人員・予算ともに余裕がない状態だった。また代用閉塞の実施には多くの人員が必要になるが、会期前の打ち合わせから人員が事実上確保できないほどだった。

 加えて事故当時は「世界陶芸祭」の来場客輸送に追われていた。会期中の昼間は小野谷信号場での交換を必ず行うネットダイヤ〈運行図表上の平行ダイヤの一種〉であり、定時運行は来場客輸送には絶対の条件だった。臨時の人員に加え、信号システムの保守に来ていた技術者まで動員して乗客をさばいていたほど信楽駅は混雑しており、社内の指揮命令系統は実質上、乗り入れについての交渉窓口に立った業務課長が仕切っていた状態だった。この結果、5月3日と事故当日の両日とも代用閉塞を手順通り行うには人員が全く不足していた。この状況で予期せぬ信号トラブルが発生したため、信楽駅は事実上パニック状態であったしかも事故当日は、運行時間中に信号系を修理するという重大な違反を犯している。代用閉塞での運転を決定して小野谷信号場まで要員を自動車で派遣したが、道路の渋滞により現地にたどり着けなかった。信楽高原鐵道は代用閉塞の準備が整わないまま上り534D列車を発車させ、おそらくは継電器室での作業により誤出発検知装置が機能を失って対向列車は小野谷信号場を越え、正面衝突事故になった。 

 事故現場には警察のヘリコプターの他、報道各社のヘリコプターも乱れ飛んだ。そのヘリコプターの爆音が現場で救出・処置にあたる救急隊の指示の声を聞こえにくくさせ活動を阻害した。また報道関係者が列車内にまで入り込んで取材活動をしたり、事故現場直近の紫香楽病院に殺到したりするなど、救出活動の阻害行為が複数の救助当事者より指摘された。

 事故の発端となった信楽駅の信号不具合の遠因は、信楽高原鐵道JR西日本がそれぞれ別個に、近畿運輸局の認可を得ずに行った信号制御の改造と、両社の意思疎通の欠如にあった

 滋賀県警察本部は事故当日の信楽高原鐵道の駅長と運転主任の2名、同じく事故当日に信号の修理を続けた信号設備会社の技師1名を逮捕し、この事故で信楽高原鐵道の車両に乗り込み死亡した3名を被疑者死亡として書類送検した。その一方でJR西日本の関係者は遺族会の告訴・告発にもかかわらず不起訴処分となった。事故の直接原因は信楽高原鐵道列車運行規程違反であったことは疑いの余地がなく逮捕された信楽高原鐵道の社員2人と信号設備会社の社員1人が、業務上過失致死傷罪などで津地方裁判所から執行猶予付きの有罪判決を言い渡され確定した。また、これとは別に運輸省現:国土交通省近畿運輸局の認可を受けずに無断で信号設備を改修したとして、信楽高原鐵道JR西日本の双方が鉄道事業法違反に問われ、先に確定していた。この刑事記録が後述の民事裁判で遺族弁護団の手に渡り、民事裁判で活用されることとなった。

 刑事裁判ではJR西日本の関係者は起訴されず、遺族は失望の念を禁じ得なかった。また遺族の要請に応じ4度にわたり信楽高原鐵道JR西日本合同で事故説明会を開催したが、信楽高原鐵道は社長の出席があったもののJR西日本の角田達郎社長は出席に応じなかった。とりわけ第1回の事故説明会の開催直前にスクープされた月刊誌『プレジデント』の記事の質問に対して、JR西日本側の回答の歯切れが悪く遺族の心証を害したこと、しかも一周忌法要でのJR西日本角田社長の発言が遺族の心証を逆撫でしたこともあり、遺族会は特にJR西日本の法的責任を明らかにすべく、1993年10月14日、信楽高原鐵道及びJR西日本の両社を相手取って提訴した。

 平成11年3月29日、大津地方裁判所は両社の共同不正行為を認め、両社に対し過失を認める判決を下した。信楽高原鐵道は控訴せず、JR西日本のみが控訴したが平成14年12月26日、大阪高等裁判所は控訴を棄却し、同社の過失が改めて認定された。JR西日本は上告せず、信楽高原鐵道JR西日本の両社の過失を認定する判決が2003年1月10日に確定した。

 この事故の後、鉄道会社間相互で行われる直通運転に対して鉄道車両と運転方法の安全性など鉄道運転業務面の問題点が指摘されるようになった。また、この事故の遺族の運動により、鉄道の分野での事故踏査委員会が初めて設けられるようになった。

 事故現場近くには慰霊碑が建てられ、事故発生日には遺族とJR西日本信楽鐡道などによる追悼法要が行われている。事故から30年目の2021年5月14日の法要では、犠牲者の数と同じ42本の蝋燭が灯され、鉄道2社の社長が「安全の鐘」を鳴らした。JR西日本社長の長谷川一明は「事故を風化させず、教訓を引き継いでいきたい」と述べた。