ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1197話 江戸城を築城した太田道灌

序文・徳川江戸幕府の礎

                               堀口尚次

 

 太田道灌(どうかん)は、室町時代後期に関東地方で活躍した武将。武蔵守護代扇谷上杉家の家宰(かさい)。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。太田資清(すけきよ)〈道真〉の子で、家宰職を継いで享徳の乱長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城し、武将としても学者としても一流という定評があった。

 道灌は、元来は江戸氏の領地であった武蔵国豊嶋郡に江戸城を築城した〈桜田郷の台地〉。

 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』では「道灌日記」という記録からの引用として、道灌霊夢の告げによって江戸の地に城を築いたとある。また、『関八州古戦録』には品川沖を航行していた道灌の舟に九城(このしろ)という魚が踊り入り、これを吉兆と喜び江戸に城を築くことを思い立ったという話になっている。これらの霊異談は弱体化していた江戸氏を婉曲に退去させるための口実という説がある。江戸城が完成して品川〈御殿山〉から居館を遷したのは、長禄元年4月8日であったと言い伝えられている。

 江戸城の守護として日枝神社をはじめ、築土神社や平河天満宮など今に残る多くの神社を江戸城周辺に勧進、造営した。後に徳川将軍家が拡張した江戸城を転用した皇居には現在も「道灌濠」の名が残る。

 江戸城城主となった道灌は、ここで兵士の鍛錬に勤しみ、城内に弓場を設けて士卒に日々稽古をさせて、怠ける者からは罰金を取りそれを兵たちへの茶代に充てたという。

 15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落し江戸郷・桜田郷から退去したのち、扇谷上杉家の上杉持家の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して康正3年に、江戸城を後世と同じ位置に築城した。江戸幕府の公文書である『徳川実記』ではこれが江戸城のはじめとされる