ホリショウのあれこれ文筆庫

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第69話 知多半島に残る源義朝伝説

序文・地元知多半島にこんな伝説の地があります。

                               堀口尚次

 

 愛知県の知多半島には、源義朝河内源氏6代目棟梁・鎌倉幕府を開いた源頼朝源義経=牛若丸 の父)が、平治の乱で平家に敗れ野間(のま)で謀殺された記録が残る。東海道を下って敗走し、馬も失った義朝は、裸足で尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町)にたどり着き、家臣で乳兄弟(ちきょうだい)の鎌田政清の舅(しゅうと)で年来の家人であった長田忠正とその子・景至のもとに身を寄せた。しかし恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受けて殺害された、と「平治物語」にはある。

 伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。義朝の墓はその終焉の地である野間大坊(のまたいぼう)=大御堂寺 の境内に存在し、廟(びょう)には上記の故事に因(ちな)んで幅約3センチ、長さ役約40センチの木刀が山のように供えられている。また、境内には義朝の首を洗ったとされる池があり、国家に一大事があると池の水が赤くなると言い伝えられている。

 現在の東海市養父(やぶ)では、義朝を慕ってこの地に来た愛妾(あいしょう)の小玉姫が、義朝の悲運を耳にし悲嘆やるかたなく義朝との間に生れた子二児を残して自刃した。村人はこれを思い小祠を建立し、以来「春風秋雨小玉さん」と呼んで供養を続けて来た。赤子の夜鳴きに霊験があるというので、信心する人が多いようだ。

 「吾妻鏡」には、義朝の墓に関する次のような記述がある。平康頼は尾張守として任地にあった時、野間にある義朝の墓が、守る人もなく草が生い茂って荒れ果てていたので、小堂を建て、田を寄進し、僧6名を置いて供養に当たらせた。義朝の子である頼朝はこの功績に応え、康頼を阿波国麻殖保(おえのほ)の保司に任じたという。また上洛途上の頼朝が、野間にある父・義朝の墓に詣でたことが記されている。荒れ果てた墓を想像していた頼朝は、立派な寺が建ち、供養されていることに感心した。寺伝ではこの時に頼朝が父の菩提のために寄進を行い、伽藍を整備し、自らの守本尊である地蔵菩薩像を安置したという。時代が下ると、豊臣秀吉徳川家康の庇護(ひご)を受けてさらに発展、現在に至る。

 私は過日「野間大坊」と「小玉姫の祠」を訪れ、畏(かしこ)み参拝した。

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