序文・知多半島北部に残る伝説
堀口尚次
筆者の地元愛知県東海市に鎮座する熊野神社のHPに以下の説明があった。『本郷熊野神社は、社格元村社で東海市加木屋町宮ノ脇43番地に鎮座し、地元住民の郷土意識と深く結ばれた氏神さま、産土さまとして親しまれ、限りない信仰と崇敬を集めている。その創建は詳かではないが、古文書により神社の沿革は知ることができる。
その記録によれば、永禄三年桶狭間の合戦で織田信長に敗れた今川義元の家臣であった久野清兵衛宗政が、駿州〈今の静岡県〉久能山を出てから、縁あって加木屋の住人になったのであるが、久能山を出る時、所持していた弥陀・薬師・観音の三尊の内、観音を氏神の御神体とした。これは久野清兵衛の家屋の戊亥〈北西〉の方向に永禄年中に宗政が寄進した氏神本社があったので、この氏神の御神体としたものと思われる。宗政は弟祐長を社人〈神主〉とし、屋敷内にあった氏神御本社を宝永年中に北の杜へ移り奉り、御除地に願い熊野三社と崇め奉った。
昭和の頃、古宮の跡に不断桜が残っていたので、これもまた境内に移し植えた。その後も久野清兵衛家八代目清平義治は、神学を好み蟇目相傳冊一巻を即共神功皇后御弓の写しと併せ、神道書記等、我農家にいらぬ物であるからと、宝歴の頃上の社内へ奉納して、今氏神の重宝となっていると記述されている。
この古文書によっても熊野から勧請したという記述は見当たらず、後年役所への届出書にも総ての社名御祭神などは報告されているが勧請の年月は解らないとして報告されている。
然し熊野権現の造営とか熊野三社と崇め奉るとあるし「熊野三社宮」の社名額が現存しているので、紀州〈今の和歌山県〉熊野から勧請されたものであると考えられる。』とある。
神社なので神紋を決める時、久野家ゆかりの五簡の瓜左みつ巴と呼ばれる、5つの瓜の中に左三つ巴が印されているものと決まり、今日まで四百年以上、熊野神社の社紋として使用されている。
地元愛知県東海市は、桶狭間の戦い〈愛知県名古屋市緑区・豊明市〉と近く、様々な伝説が存在する。