ホリショウのあれこれ文筆庫

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第67話 アイヌ(蝦夷)人と和人との戦いの歴史

序文・リクエストにお応えして、アイヌの戦いの歴史を紐解いてみました。

                               堀口尚次

 

 平安時代の公(く)卿(ぎょう)=公家の最高幹部 の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、陸奥出羽按察使(あぜち)=地方行政監督機関・陸奥(むつの)守(かみ)・鎮守将軍の職位に就き、更に桓武天皇より征夷大将軍に任ぜられると、東北地方全般の行政を指揮する官職を合わせ持った。この後更に位を上げて、従(じゅ)四位(しいの)上(じょう)・近衛中将となる。「征夷」とは蝦夷を征討するという意味。この名残から武家政権の将軍には徳川将軍に至るまで、朝廷から「征夷大将軍」の官職が賜(たまわ)れた。この時の「征夷」は東北地方の蝦夷(えぞ)人との戦いであり、蝦夷の族長である阿弖流為(あてるい)を降伏させているが、北海道へは進軍していない。

 鎌倉時代になると、安東(あんどう)氏(し)が蝦夷大官職になるが、津軽蝦夷人の蜂起があり、安東氏が討たれている。

 室町時代にはコシャマインの戦い」と云われる、和人鍛冶職人とアイヌ青年の争いを発端として、アイヌの首長コシャマインが蜂起したもので、これは現在の北海道函館付近であり、最終的に平定されるが、和人を大いに苦しめたという。更に「ショヤコウジ兄弟の戦い」は、北海道南部で発生した、アイヌ首長・ショヤコウジ兄弟と蠣先(かきざき)光弘=北海道松前の武将 との戦いである。衝突の原因は、北海道渡島(おしま)半島の縄張り争いと考えられる。

 江戸時代にはシャクシャインの戦い」と云う、アイヌでシブチャリの首長シャクシャインが中心として蜂起し、アイヌ2部族の抗争、報復の最中に松前藩に対する武器貸与要請の使者に関する誤報から、松前藩への大規模な蜂起に発展した。この後、松前藩は中立の立場をとり蜂起に参加しなかった地域集団をも含めたアイヌ民族に対し「七ヵ条の起請文」によって服従を誓わせた。その後「クナシリ・メナシの戦い」と云う、クナシリの請負人・飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリのアイヌが蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害したが、この戦いに破れて以降、アイヌによる大規模な蜂起は見られなくなった。

 日本北部の先住民族である、アイヌ人(蝦夷人)は、自分達の部族間抗争と和人(本州から攻め込んだ武将達)らの侵略との戦いの末、明治時代には日本国民の「平民」へと編入された。現在、アイヌ固有の文化は衰退の一途を辿(たど)っているが、その歴史や文化は最大限尊重されるべきだと考える。

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※道南の神社が所蔵していたという 江戸時代の「アイヌ風俗絵馬」