ホリショウのあれこれ文筆庫

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第283話 屯田兵の歴史

序文・北海道開拓の礎

                               堀口尚次

 

 屯田兵(とんでんへい)は、明治時代に北海道の警備と開拓にあたった兵士とその部隊である。明治7年に制度が設けられ、翌年から実施、明治37年に廃止された。

 屯田〈兵士による開拓〉制を北海道に実施するという考えは、明治初年から様々な方面に生まれていた。そのおそらく最初のものは、徳川家の遺臣を移して北方警備と開墾に従事させようとする榎本武明〈幕臣〉の考えで、彼はこの計画を掲げて新政府と箱館戦争を戦った。

 屯田兵は家族を連れて入地し、入地前にあらかじめ用意された家「兵屋」と、未開拓の土地を割り当てられた。兵屋は一戸建てで村ごとに定まった規格で作られた。板壁の柾(まさ)屋根〈薄く割った板で葺(ふ)いた屋根〉の木造建築で、広さは畳敷きの部屋が2部屋、炉を据えた板の間、土間、便所からなり、流し前は板の間あるいは土間におかれた。高温多湿の気候に向いた高床式の日本建築ゆえ、冬季には寒さで非常な苦痛を強いられた。さらに、明治34年頃の深川村の兵屋では、7, 8月に、室内で、50~60匹のハマダラカ〈マラリア原虫を媒介する蚊〉を容易に捕獲できた。つまり、夜間、多数のハマダラカが侵入するような兵屋であった。兵村は形式においては一般の村と並ぶものではないが、集団で入って一つの規律に服したので、実際には村の中の独立した村として機能した。

 屯田兵の生活規則は厳しかった。起床と就業の時間が定められ、村を遠く離れる際には上官への申告を要した。軍事訓練と農事のほかに、道路や水路などの開発工事、街路や特定建物の警備、災害救援に携わった。また、国内外の様々な作物を育てる試験農場の役目も兼ねた。

 徴兵制だった当時の日本において、屯田兵は長期勤務の志願兵制という点でも特殊であった。法制上は兵卒から士官への昇進の規定はなかったが、実際には昇進者もあり、後期屯田の幹部となった。実際に屯田兵は、西南戦争日清戦争日露戦争に参加している。

 明治維新により、職を失った士族〈旧武士〉らは、新天地を蝦夷地に求めたが、そこは想像をはるかに超えた極寒で未開の地であった。先住民〈アイヌ〉や流人(るにん)との共生など、凡(おおよ)そ武士の生き様から比較にならない生き地獄の連続だったろう。士族でも特に佐幕(さばく)〈徳川家〉だった家臣が多く、重ね重ね苦労が多かったことだろうと察するばかりだ。今の北海道は、屯田兵の礎(いしずえ)の上にある。