ホリショウのあれこれ文筆庫

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第272話 ジンギスカンになった源義経

序文・依怙贔屓と判官贔屓は違う

                               堀口尚次

 

 源義経は、平安時代の日本の武将。鎌倉幕府初代将軍源頼朝の異母弟。仮名は九郎である。河内源氏源義朝の九男として生まれ、幼名を牛若丸と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に平泉へ下り、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受ける。兄・頼朝が平氏打倒の兵を挙げるとそれに馳せ参じ、一の谷屋島壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によって怒りを買い、このことに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼った。しかし、秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主・藤原泰衡に攻められ、現在の岩手県平泉町にある布川館で自刃した。

 その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉を始め、多くの伝説、物語を生んだ。判官贔屓とは、第一義には人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のことであり、さらには「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直(りひきょくちょく)〈道理に合っている事と合っていない事〉を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」心理現象を指す。

 義経ジンギスカンは、モンゴル帝国創始者チンギス・ハンと源義経が同一人物であるという仮説・伝説。源義経は兄頼朝に追われ、奥州平泉で自害したことになっていたが、実は生きて蝦夷に落ち延びたとする噂や伝説は江戸時代初期にはあった。 寛文7年江戸幕府の巡見使一行が蝦夷地を視察しアイヌオキクルミの祭祀を目撃し、幕府の役人は帰府後何度もアイヌ社会ではオキクルミが「判官殿」と呼ばれ、その屋敷が残っていたと証言した。更に奥の地〈シベリア、樺太〉へ向かったとの伝承もあったと報告する。義経は自殺せずに蝦夷から韃(だっ)靼(たん)〈モンゴルの部族〉に渡り元の祖となったと確信しているという話を新井白石〈旗本・朱子学者〉が『蝦夷史』で義経が韃靼に渡ったと結論している。シーボルト〈幕末のドイツの医師・博物学者〉も、さまざまな伝承、説話、先駆者達の研究を綿密に検討した結果、義経蝦夷へ行き大陸へ渡った説を支持した。

 牛若丸と弁慶が京都の五条橋で戦った話も伝説なのだろうか。歴史ロマンだ。

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