ホリショウのあれこれ文筆庫

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第967話 木曽義仲と巴御前

序文・最期の奉公

                               堀口尚次

 

 源義仲は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏の一族、源義(よし)賢(かた)の次男。源頼朝義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾義仲の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍〈旭将軍とも〉と呼ばれている。

 以仁王(もちひとおう)〈後白河天皇の第三皇子〉の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮(ほくろくのみや)として擁護し、倶利伽羅峠の戦い平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる法住寺合戦に及んで法皇後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼朝が送った源範頼義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。

 巴御前(ともえごぜん)は、平安時代末期の信濃国の女性。女武者として伝えられている。字は鞆(とも)、鞆絵とも。『平家物語』によれば源義仲に仕える女武者。『源平盛衰記』によればの中原兼遠の娘、樋口兼光今井兼平の姉妹で、源義仲

 軍記物語『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場し、木曾四天王とともに源義仲平氏討伐に従軍し、源平合戦で戦う大力と強弓の女武者として描かれている宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん〈最後の奉公でございます〉」と言い、大力と評判の敵将・御田八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首を切った。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた所で物語から姿を消す。

私見】過日偶然にも、愛知県蟹江町常楽寺龍照院を訪れると、石碑に「重文十一面観音と木曽義仲巴御前ゆかりの寺」とあった。大日如来坐像は、木曽義仲菩提を弔うために巴御前が安置した仏像と言われており、信濃へ落ちる際、蟹江町常楽寺は義仲が建てた寺であることを知った巴は、この寺に大日如来坐像を安置し、髪を下ろして尼となり、名を「東阿禅尼」と呼び、義仲の菩提を弔ったと伝えられているそうだ。

                 ※常楽寺大日如来 筆者撮影