ホリショウのあれこれ文筆庫

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第795話 弓の名手・那須与一

序文・平家物語に登場

                               堀口尚次

 

 那須与一(なすのよいち)は、平安時代末期の武将・御家人系図上は那須氏二代当主と伝えられる。一般的に宗隆と紹介されることも多いが、家督を相続した後は資隆と名乗ったと伝えられる。治承・寿永の乱において、兄・十郎為隆と共に源頼朝方に与し、その弟・義経軍に従軍した。元暦2年の屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられたの的を射落とすなど功績を挙げ、頼朝より5カ国に荘園を賜った。

 幼い頃から弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し父を驚嘆させたという地元の伝承がある。また、治承4年、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、父が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説がある。その他与一が開基とする寺社がいくつか存在している。平家物語』に記される、扇の的を射抜く話が非常に有名である

 与一は海に馬を乗り入れると、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、もしも射損じれば、腹をかき切って自害せんと覚悟し、鏑矢(かぶらや)〈矢の先端付近の鏃(やじり)の根元に位置するように鏑(かぶら)=矢の先に蕪(かぶら)の形の中空の球をつけたもの が取り付けられた矢のことで、射放つと音響が生ずることから戦場における合図として合戦開始等の通知に用いられた〉を放った。矢は見事に扇の柄を射抜き、矢は海に落ち、扇は空を舞い上がった。しばらく春風に一もみ二もみされ、そしてさっと海に落ちた。『平家物語』の名場面、「扇の的」である。美しい夕日を後ろに、赤い日輪の扇は白波を浮きつ沈みつ漂い、沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏は箙(えびら)〈矢を入れて肩や腰に掛け携帯する容器〉を叩いてどよめいた。これを見ていた平氏の武者、年五十ほど、黒革おどしの鎧(よろい)を着、白柄の長刀を持っている者が、興に乗って扇のあった下で舞い始めた。義経はこれも射るように命じ、与一はこの武者も射抜いて船底にさかさに射倒した。平家の船は静まり返り、源氏は再び箙を叩いてどよめいた。あるものは「あ、射た」といい、あるものは「心無いことを」といった。

 因みに、与一は弓の腕を上げようと修行を積み過ぎたため、左右で腕の長さが変わったと伝えられている。