ホリショウのあれこれ文筆庫

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第475話 燃える闘魂・アントニオ猪木

序文・1、2、3 ダー!!

                               堀口尚次

 

 プロレスラーとしては新日本プロレスの創業や異種格闘技戦で活躍。政治家としては参議院議員〈2期〉、スポーツ平和党代表、次世代の党国民運動局長兼参議院政策調査会長、日本を元気のする会最高顧問、同代表などを歴任。

  国会での質疑に「元気ですか!」と絶叫してから入る猪木に山崎力委員長〈当時〉が「元気が出るだけでなく心臓に悪い方もいる」と注意した。

 13歳の時に貧困を抜け出せるかもしれないという希望から、母親、祖父、兄弟とともにブラジルへ渡り、サンパウロ市近郊の農場で少年時代を過ごす。昭和35年、興行でサンパウロを訪れていた力道山から直接スカウトされて日本へ帰国し、日本プロレスに入団。

 新日本プロレスでは、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」という「ストロングスタイル」を標榜。その後のプロレスに大きな影響を与える。猪木は自身の最強を証明するため、パキスタンの英雄アクラム・ペールワン、「熊殺し」の異名をとる空手家ウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続け、後年の総合格闘技の礎を築いた。中でもプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦は世界各国に中継され話題を呼んだ。

 政治家に転向してからの平成2年、湾岸危機が勃発すると、フセインが当時クウェートにいた日本人41人などを事実上の人質としてイラクに連行・国外移動禁止処分にする。政府間の人質解放交渉は難航したが、猪木が12月1日にイラクで「平和の祭典」を行うことを発表。外務省はこれに難色を示したが、猪木は個人で費用を負担してトルコ航空機をチャーター、関係者や人質被害者41人の家族46人と共にトルコ経由でバクダッドへ入った。このイベントの開催後に、在留日本人と全人質が解放された。 

この道を行けばどうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せばその一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」昭和26年に発表された「此の道を行けば/どうなるのかと/危ぶむなかれ」に始まる清沢の詩「道」は、後年「一休の言葉」と誤解したとみられる猪木らによって、文言は多少違っているものが、広く流布されている。

※生前に建てた青森県のお墓