ホリショウのあれこれ文筆庫

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第11話 由井正雪・慶安の変

序文・江戸時代初期は、幕藩体制が整う前の過渡期にあった。書籍を読み、武士の牢人(浪人)問題の深さを知り、筆を執りました。

                               堀口尚次

 

 由井正雪は江戸時代前期の軍学者で、慶安の変の首謀者である。軍学塾「帳孔堂」を開いた。塾名は中国の名軍師と言われる子房と諸葛明に由来している。道場は評判となり一時は3000人もの門下生を抱え、その中には浪人のほか諸大名の家臣や旗本も多く含まれていた。

 慶安4年江戸幕府第3代徳川家光の死を契機として、幕府政策への批判と浪人の救済を揚げ、各地で浪人を集め挙兵して、幕府転覆を計画した。しかし、決起の寸前になって計画の存在を密告され、正雪は駿府の宿において町奉行の捕り方に囲まれ自刃した。これを慶安の変という。

 大名取り潰しによる浪人の増加が社会不安に結びついていることが事件の背景にあり、この事件とその1年後に発生した承応の変(浪人による老中襲撃事件)を教訓に、老中・阿部忠秋らを中心としてそれまでの政策を見直し、浪人政策に力を入れるようになった。改易(お家取り潰し)を少しでも減らすために「末期養子の禁(世継ぎの緊急縁組の禁止)」を緩和し、各藩には浪人の採用を推奨した。

 支配体制のいまだ確率していない江戸時代初期には、「末期養子の禁」により改易になった大名が顕著で、幕府の成立から3代将軍徳川家光の治下にかけて、嗣子(嫡男・嫡子=世継ぎ)がいないために取り潰される大名家が続出した(江戸時代で約80件)。これは幕藩体制を確立するために大いに役立った。しかしその反面、それらの大名家に仕えていた武士たちは浪人となる他なく、社会不安も増すことになった。有名な島原の乱においても多くの浪人が一揆に加わったことがその鎮定を困難にしたとされる。

 そのような情勢下の慶安4年徳川家光が病死し、後を11歳の息子家綱が継ぐこととなり、まだ幼く政治的権力に乏しいことを知った正雪は、これを契機として、幕府の転覆と浪人の救済を揚げて行動を開始した。計画ではまず幕府の火薬庫を爆発させ各所に火を放って江戸城を焼き討ちし、これに驚いて江戸城に駆け付けた老中以下の幕閣や旗本など幕府の主要人物たちを鉄砲で討ち取り、将軍家綱を人質にとる。それと同時に天皇を誘拐して政治の実権を奪い取る手筈であったが、事前に情報が洩れてしまい計画実行は頓挫してしまった。

 事件には武功派の盟主であった徳川御三家紀州藩徳川頼宣の関与が疑われ失脚させられている。その後、幕府の政治はそれまでの武断政治から、法律や学問によって世を治める文治政治へと移行していくこととなり、くしくも正雪らの掲げた理念に沿った世になるに至った。

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