ホリショウのあれこれ文筆庫

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第12話 幕末・政治総裁職 松平春嶽

序文・幕末の四賢候である松平春嶽は幕府親藩のプリンスだった。書籍を読んで筆を執りました。最後の将軍・徳川慶喜との駆け引きなど、終始幕末・維新の中心にいた。

                               堀口尚次

 

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 越前・福井藩徳川御三家御三卿に次ぐ御家門の親藩)藩主の松平春嶽(春嶽は号で、諱は慶永)は、幕末の四賢候薩摩藩島津斉彬土佐藩山内容堂宇和島藩伊達宗城)の一人とされ、元は御三卿・田安家の出である。

 天皇の勅許を得ぬまま、日米修好通商条約を締結した大老井伊直弼に対して御三卿一橋慶喜、水戸前藩主・徳川斉昭尾張藩主・徳川慶勝らが不時登城してまで違勅を諫めたが、春嶽は登城前の井伊家に直弼を尋ね、詰問している。御三家や御三卿や御家門は、幕政を司る大老(老中)よりも、官位などは高く権威はあったが、幕政に参画は出来ず、悪までも助言などに留まっていた。幕政の最高責任者だった井伊直弼は、この件で不時登城の三人や彦根藩屋敷へ詰問に来た春嶽らに、隠居・謹慎を言い渡した。安政の大獄の始りである。

 桜田門外の変で井伊が失脚すると、薩摩藩国主(藩主の父)島津久光は、藩兵を引き連れ上洛し朝廷に対して、幕政改革を迫った。その要件の一つに松平春嶽大老にすることが盛り込まれていた。こうして春嶽は政治総裁職(大老格)になり幕政の責任者となり、尊皇攘夷派の活動で荒れる都を平定する責任者として、会津藩主・松平容保京都守護職を任命した。

 春嶽は、熊本藩横井小楠を政治顧問にし、福井藩医の橋本佐内や下級武士であった由利公正などを登用して改革を推し進めた。

 公武合体(皇女和宮の降嫁や将軍家茂の上洛)・開国論者であった春嶽は、その後雄藩連合(親藩・譜代・外様・公家などから優秀な人材を登用)を模索するが、将軍後見職一橋慶喜と馬が合わず、一時は政治総裁職を辞している。

 熊本藩横井小楠土佐藩山内容堂の勧めもあり、春嶽は雄藩連合構想を更に進めた、上院(朝廷・武家)や下院(一般人)による合議制の政治を目指し、将軍になった徳川慶喜大政奉還を勧めていた。

 ところが大政奉還がなされ、逆をつかれた薩長側(岩倉具視らの朝廷側)は王政復古で徳川家(徳川慶喜の官位と領地の返還)の息の根を止めようと図った。大政奉還後の議定(副総理格)に任じられた春嶽は、岩倉らに慶喜も議定にするように働きかけたが、西郷隆盛らの画策で鳥羽伏見の戦いとなり、慶喜は朝敵とされてしまった。

 春嶽は、その後できた明治新政府の要職にも就いたが、政府要職は薩長土肥(特に薩長)になり、春嶽が描いた雄藩連合(旧徳川幕府側を含む)とは程遠いものとなっていった。徳川幕府明治新政府の両方で要職に就いたのは、松平春嶽ただ一人だった。ちなみに、「明治」の元号は春嶽が命名したものである。