ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第13話 悲運の幕臣・小栗上野介

 序文・幕末の旗本(官僚)ですが、知人の勧めもあり、書籍を読んで筆を執りました。武士道を貫いた生き方が、時代の荒波の中に消えて行きました。

                               堀口尚次

 f:id:hhrrggtt38518:20210831182637j:plain

 幕末の幕臣(旗本)に小栗上野介忠順なる人物がいた。上野介とは上野の国(群馬県)の次官(介)ということ。長官は(かみ)というが、上野国親王天皇の子 がを名乗ることになっていた。元は小栗豊後守(ぶんごのかみ)を名乗っていた。

 外国奉行勘定奉行南町奉行・歩兵奉行・陸軍奉行並・軍艦奉行・海軍奉行並など幕府の要職を歴任しているが、上役(老中などの幕閣に)にところかまわず進言・諫言するので罷免される事も多く、自ら辞職することも多かった。

 日米修好通商条約批准のためポーハタン号で渡米し(この時に勝海舟も咸臨丸で随行)、貨幣の交換比率の見直しの交渉を、持参した天秤やそろばんを使い行った(この交渉でアメリカの新聞は絶賛の記事を掲載した)。ただし比率の改訂までは至らなかった。その後地球を一周して帰国している。

 外国奉行として、ロシア艦隊対馬占領事件を処理するが、交渉が難航するなか小栗は「私を射殺して構わない」と言い切り交渉を押し切っている。江戸に戻り老中らに進言するが、幕府の対処能力の限界を感じ辞職している。

 勘定奉行になった小栗は、駐日フランス公使ロッシュと繋がり、横須賀製鉄所・造船所(のちの横須賀海軍工廠)の建設計画に着手する。

 軍事力強化のため、幕府陸軍フランス軍人に指導させる計画も立案。大量の兵器・装備品(軍服なども含む)を調達している。

 経済面では、後の商社や株式会社に繋がるものを立ち上げたり、日本初の本格的ホテルを発案・指導したりと、小栗の財政・経済及び軍事上の施策は大いに見るべきものがあり、その手腕については倒幕派もこれを認めざるを得なかった。あの西郷隆盛をして「偉大なる権謀家」と言わしめた。

 大政奉還後、鳥羽伏見の戦いで敗れて江戸帰還の徳川慶喜が開いた評定において、小栗は榎本武揚大鳥圭介らと徹底抗戦を主張し、綿密な必勝計画案を進言するが受け入れられず、あまりに強硬に進言したため即刻赦免されてしまった。(一説には将軍慶喜の袴に手を伸ばし退席を妨げたとか)

 御役御免になった小栗は、知行地の上洲権田村(群馬県高崎市)で恭順隠遁する事になった。渋沢成一郎渋沢栄一の従兄弟)らから、彰義隊(徹底抗戦派の幕臣軍団)の隊長に推挙されるが辞退している。

 小栗らは、新政府軍(東山道軍)の軍監らに操られた旧幕府譜代の高崎藩・安中藩・吉井藩らから、謀反(反逆の姿勢あり)とされ捕縛・斬首された。

 河原での斬首のおり、家臣が改めて無罪を大声で主張すると、小栗は「お静かに」と言い放ち、「もうこなった以上は未練を残すのはやめよう」と諭した。