ホリショウのあれこれ文筆庫

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第14話 肥前佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)

 序文・幕末の薩長土肥(さっちょうどひ)の肥前藩は、アームストロング砲で有名だが、書籍を読んで藩主・鍋島閑叟について知り、筆を執りました。

                      f:id:hhrrggtt38518:20210831182721j:plain                 堀口尚次  

 父の隠居を受け17歳で肥前佐賀藩主に襲封。従兄弟に薩摩藩主・島津斉彬、義兄に福井藩主・松平春嶽、又従兄弟に大老井伊直弼、義父に宇和島藩主・伊達宗成、自身の正室と継室ともに将軍の娘など幕府中枢や大大名との繋がりが強く、最期の将軍・徳川慶喜大政奉還を勧めた一人でもある。

 若くして藩主となり、藩政改革(財政再建)に取り掛かるが、老公(父・前藩主)や重臣達の古式慣習からの脱却阻止に阻まれ苦難する。

 当時不治の病だった天然痘を根絶するために、種痘を推進し自身の息子(世継ぎ)にも施した。藩主(世継ぎ)が率先して行うことの重要性を実践した。

 西洋文明(特に蘭学)にも大いに興味を示し、薩摩藩主・島津斉彬のように「蘭癖大名」と呼ばれ、武器(最新の銃や大砲)・軍艦(蒸気機関)・医学などあらゆる分野で日本が西洋文明に劣っていることに危機感を覚えていた。発明家の田中久重東芝創始者)を招き、蒸気機関の研究にあたらせている。

 そんな中、最新の大砲や軍艦を建造するのに「反射炉(最新の鉄を溶かす炉)」の建設を急務と考え実行に移していった。この反射炉がないと、有名なアームストロング砲を造ることは不可能とされていたが、実際に製作できたのかは謎のままである。戊辰戦争(特に彰義隊上野戦争が有名)で活躍したアームストロング砲は、いち早くオランダから購入したものだ。

 激動の中央政界では、佐幕派・勤王派・公武合体派のいずれとも均等に距離を置いたため、「肥前の妖怪」と警戒された。

 江戸時代中期・佐賀藩主が、武士としての心得を書いた「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見付けたり」は有名だが、直正は、進んで死ぬことが美学なのではなく、何事も死んでもいい覚悟で臨むことが大事と説いていた。

 最期の将軍・徳川慶喜大政奉還を説いた時に、「自分(直正)と同じように泥をかぶって下され」と迫ったとされる。直正は、軍備を西洋式に整え、強力な武器(アームストロング砲)を持つ事は、外国(西洋列強)への軍事介入の抑止力になると考えていた。日本の内乱(戊辰戦争)の為に使うのではないと説いた。幕藩体制が崩壊しても、天皇を中心とし、全国から優秀な人材をつのり、西洋列強に対抗できる日本国家を創ることが第一と訴えた。国内の内乱を防ぐ為には、誰かが泥をかぶらなければならなかったのだ。

 直正は48歳で長男に家督を譲り、閑叟と名乗った。閑叟とは「暇な年寄り」という意味だが、暇どころか、明治新政府の要職に就くなど最期まで活躍した。特に実力のある若い藩士を登用し、江藤新平大隈重信などを輩出した。