ホリショウのあれこれ文筆庫

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第15話 脱藩大名・林忠崇の戊辰戦争

序文・幕末の諸藩の動向を調べていたら、こんな大名がいた事を知りました。書籍を読んで筆を執りました。

f:id:hhrrggtt38518:20210831182517j:plain                        堀口尚次

 徳川三百年の恩顧に報いて、藩主の座を捨て幕府に忠義を尽くした「最後の大名」林忠崇は、幕末の上総国(千葉県)請西藩の藩主であったが、大名自らが脱藩し、旧幕府

徹底抗戦組と共に戊辰戦争を戦った稀有な大名だった。

 請西藩は石高一万石の小藩だが、藩主の林家は三河譜代の家柄である。伝承によれば三河松平家の祖先が信濃で窮した際に、旧知の林家を頼ったことがあり、その時に林家が雪の中の兎を捕えて吸い物にし、松平家に振る舞ったという。これを開運の嘉例とし、徳川幕府の下では正月行事として、林家が将軍に兎の吸い物を献上し、将軍から酒を賜るという「献兎賜盃」の儀式が行われることとなっていた。このことからも分る通り、請西藩・林家と幕府・徳川家との結束は固く、強い主従関係で結ばれていた。

 大政奉還・王政復古により、親藩・譜代・外様すべての大名が新政府軍・勤王派に恭順するような通達があったが、幕臣(直臣)である旗本・御家人などの中には徹底抗戦派も多く、逆に幕府への忠誠心が高い(佐幕派)の譜代大名の大藩や親藩の中にも新政府軍に加担する藩(尾張=御三家・彦根=譜代筆頭・福井=御家門)がでてきたので、譜代の小藩などは、勤王と佐幕の板挟みとなり、日和見的な立場を取らざるを得なかった藩も少なからず存在した。

 請西藩も恭順派・抗戦派とに分れて伯仲したが、遊撃隊(旧幕臣徹底抗戦派)などが藩領を来訪して助力を要請すると、忠崇は自ら脱藩することで自由行動を行えるようにし、藩士70名とともに遊撃隊に参加した。新政府は藩主自らの脱藩を反逆と見なし、林家は大名家最後の改易処分(お家取り潰し)となった。

 旧幕府海軍(榎本武揚)の協力を得て、箱根や伊豆で新政府軍と交戦し、その後奥羽越列藩同盟軍に加わり抗戦を続けたが、頼みの仙台藩が恭順し、「徳川家存続」の報を受け忠崇は、戦いの大義名分が果たされたとして降伏した。その後江戸の唐津藩邸に幽閉され、のちに甥の忠弘の預かりとなる。

 請西藩は、戊辰戦争によって改易された唯一の藩である。そのため、林家は諸侯でありながら大政奉還以降唯一華族に入れなかった一族となった。

 赦免後の忠崇は、請西村で農民として暮らしたり、東京府の下級役人をしたり、函館に渡り物産店に勤めたり、大阪で役所に勤めたりと波乱万丈の人生を送るが、明治26年にはついに無爵華族(官位・従五位)に叙された。

 昭和12年には、生存する唯一最後の元大名となった。昭和16年94歳で歿したが、死の直前に辞世を求められた際「明治元年にやった。今はない」と答えた。戊辰戦争で降伏する時に、生きて帰れぬと思い辞世の句を詠んでいたのだ。