ホリショウのあれこれ文筆庫

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第10話 美濃郡上藩・凌霜隊

序文・幕末の悲劇は会津藩・白虎隊に代表されがちだが、他にも沢山の悲劇があった。郡上踊りで有名な郡上藩にも、悲劇があった。

                               堀口尚次

 

 幕末の動乱期に美濃郡上藩は、他藩にもれず佐幕と勤王に揺れ動いた。藩にて激論が繰り広げられていたが、藩論は勤王と決した。しかし徳川家譜代の家臣であった郡上藩・青山家では、情宜的に佐幕の雰囲気も強く、特に江戸藩邸においては佐幕派が多数を占め、脱藩して新政府側に抵抗しようとする考えの者もいた。凌霜隊は脱藩士によって組織された部隊で、国許15名・江戸詰め30名で構成され、戊辰戦争において旧幕府側にたって新政府軍と戦った。結成の経緯については、江戸家老朝比奈藤兵衛が、幕府側が勝利した際の事も考慮して主導し、国家老佐々木兵左衛門と相談の上、藩の存続をかけた二股的な戦略であったという説もある。

 凌霜隊は、新政府側には脱藩浪士扱いとして届けてあるので、藩内においても箝口令がしかれ、家族・親族にも結成の真相は伏せられていた。勿論、隊士らは藩命を帯びての「二股戦略による行動」なのであるが、家族・親族には「藩命による緊急な江戸出府」としか伝えられなかった。

 江戸についた凌霜隊は、旧幕府側の徹底抗戦派(草風隊・貫義隊・伝習隊)などと合流しながら新政府軍と戦い、会津若松城を目指した。勤王に酌みしていた郡上藩からは、100名の藩士が新政府軍に派遣されていた。凌霜隊は、自分の藩の同志との戦いだけは避けたかったが、幸いにも郡上藩派遣の藩士は征討軍参謀本部の護衛軍になっていたので、最悪の事態だけはまぬがれた。若松城では有名な白虎隊と共に新政府軍と戦ったが、最終的に降伏することになり、凌霜隊は猪苗代で謹慎した。その後、郡上に護送されたが、藩では元隊士を脱藩の罪人として扱い、獄舎へ監禁した。

 なんと国家老の佐々木兵左衛門は、凌霜隊は江戸家老の朝比奈親子が勝手に行ったものとした。獄舎の環境が劣悪なことから病気になる者も多かったため、慈恩禅寺の住職らの嘆願により城下の長敬寺に移され、元隊員らの苦難は軽減された。藩では当初、元隊員らを処刑するつもりであったが、新政府の命令により自宅謹慎となり、その後謹慎も解かれ、赦免された。しかし罪人として処罰された元隊員達に対して周囲の態度は冷たく、元隊員らの多くは郡上八幡を離れた。それにしても藩命により、忠義を貫いた凌霜隊の心境を慮らずにおれ ない。会津若松城まで旧幕府軍として転戦した凌霜隊は当然賊軍であり、その対応を誤れば明治新政府からの郡上藩への御沙汰も想像に余りあるのだが。

 ちなみに「凌霜」とは、霜を凌いで咲く葉菊のような不撓不屈の精神を表す言葉で、郡上藩青山家の家紋である青山葉菊に由来する。

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