ホリショウのあれこれ文筆庫

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第9話 民族派活動家・野村秋介

序文・討論番組「朝まで生テレビ」で初めて彼を知った。強烈な印象を受け、書籍を読んで筆を執りました。懲役・計18年という彼の偉才は、言葉では語りつくせない。

 

 

                                 堀口尚次

 

 戦後の民族派の代表的論客として、新右翼と言われたり晩年は映画プロデューサーという肩書もあった。昭和10年東京生まれ、横浜で愚連隊に入りヤクザの舎弟をつとめた。同36年、憂国道志会を結成して右翼活動家として独立。

 同38年に河野一郎邸焼き討ち事件を起こし逮捕され、懲役12年の実刑判決を受けた。犯行の動機を「かねてから河野大臣が自民党内の派閥抗争を激化さしておる。その反省を求めるためにやった。行動については、自分が一人で計画して行った」と供述した。網走刑務所で服役中、五・一五事件の三上卓(国家主義者)の門下生である青木哲と出会ったことを機に民族主義者となり、自らも三上卓の弟子となる。

 出所後の1977年には元盾の会(三島由紀夫が結成した民間防衛組織)のメンバーらと経団連襲撃事件を起こし逮捕、懲役6年の実刑判決を受け再び服役。『戦後(ヤルタ・ポツダム)体制の欺瞞に鉄槌を下す』目的の下に、ピストルと猟銃と日本刀を携えて経団連会館に侵入し、職員12名を人質にとり、7階の会長室に約11時間監禁籠城した。

 18年に及ぶ獄中生活であらゆる分野の書物を読破し、新右翼理論家としての基礎を固める。出所後は、テレビ番組への出演や参議院選挙への出馬などマスコミに取り上げられる機会も増えていった。

 遺作の著書「さらば群青」でこう述べている。「私は沁々思うのだが、明日の命を保証されている人など一人もいない。『一日一生』という言葉があるが、かかる覚悟なくしての生涯こそ、無味乾燥の哀れをきわめた生きざまではあるまいかと、私は若いときから思い続けてきた。戦後日本人は、『死』や『暴力』といった実は避けては通れぬ大命題を、まやかしの平和論とすり替えて、なるべく触れたり直視したりすることを忌み嫌ってきた。人間は『死』とは無縁ではあり得ない。社会は『暴力』と無関係ではあり得ない。眼をそらし続けようと思えば思うほど、人間は正気を失い堕落してゆく。」と。

 西郷南洲遺訓の「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末にこまる人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」が、野村の遺作著書の表紙裏に掲げられている。

 平成5年、朝日新聞東京本社に社長を尋ね、話し合いの後、「皇尊弥栄」を三唱後に拳銃自殺した。享年58歳。

 著作・獄中句集に彼を表す代表的な句がある。

         『俺に是非を説くな 激しき雪が好き』

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