ホリショウのあれこれ文筆庫

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第8話 大久保彦左衛門の生き様

序文・大久保彦左衛門は名前は聞いたことがあったが、どういう人物か知らなかったので、書籍を読んで筆を執りました。ただの、頑固爺さんではなかった。

                               堀口尚次

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 江戸時代初期の旗本に大久保彦左衛門なる武士がいた。徳川家康・秀忠・家光と将軍3代の直臣として仕えた。知行1000石の平旗本で、家光時代の役職は旗奉行であったが、これは名誉職のようなものであり、表向きは幕府の御意見番であったが、実情は閑職であり幕閣からは疎んじられていた。

 三河松平家の古い家臣の家に生れ、多くの兄達と共に家康に従って数々の戦で活躍し、徳川幕府の成立に多大の貢献をした。

 しかし、ひとたび平和な時代が訪れると、時代は戦いに優れた武士よりも、政治に必

要な官僚を求めた。大久保家は所領を減らされ閑職に追いやられて不遇な時代が続いた。また、家康が苦労していた頃に家康を裏切ったりしたような元家臣が復権して高い地位に付いたりしているのを見るにつけ彦左衛門の憤懣は募っていった。

 江戸幕府創世記は、牢人(のちに浪人)問題が重要課題となっていた。家康は、幕府の政策として大名の改易を推奨していた。旧豊臣系の外様大名を中心に大名廃絶政策を取り、多くの大名が世嗣断絶、幕法違反などの理由によって取り潰され、これによって大量の牢人が生じ、3代将軍家光の晩年には50万人に達した。(キリシタンで有名な島原の乱や、軍師・由井正雪らの幕府転覆計画・慶安の変や承応の変なども牢人が多数参画している。ちなみに、シャム=現在のタイに渡った山田長政の兵も牢人が大半だった。)

 彦左衛門は、牢人救済に奔走したといわれており、自身の立身出世より武骨な道を選んだ。徳川家への忠義を貫く典型的な三河武士であったが、自分達のようなタイプの人間が次第に徳川家の中で窓際に追いやられるようになり、忠節や信義より、弁舌でのし上がっていくタイプの人間が幅をきかせる風潮を苦々しく思っていた。そうした中、彦左衛門は、大久保家と徳川家の歴史をまとめた「三河物語」を出筆し、単に忠義に厚いだけでなく、徳川家と三河武士の主従関係の変容と矛盾、そうした屈折した思いも記すことにより、戦がなくなり武士の存在意義がなくなりつつある中、不平不満を持った武士達は彦左衛門の考えに共感・喝采していった。

 彦左衛門が江戸城に、タライに乗って登城する話が有名だが勿論史実ではない(旗本以下=大名でない、はカゴでの登城はできない)。様々な奇行や、将軍などへのことあるごとの諫言などから、「義侠の人」として慕われていたことは事実のようである。所領である三河国額田(現、額田郡幸田町)の長福寺に墓所がある。

 

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