ホリショウのあれこれ文筆庫

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第7話 勤皇思想家・高山彦九郎

 序文・細井平洲先生を調べている時に、知った勤皇思想家。書籍を読んで筆を執りました。幕末の尊皇思想に影響を与えた一人。

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                               堀口尚次

 

 江戸時代中後期の勤皇思想家に高山彦九郎なる人物がいた。京都三条大橋の袂に、有名な「皇居望拝の像」がある。あれは、土下座しているのではなくて、御所に向かって「草莽の臣」の誓いを宣言しているところである。

 寛政の三奇人の一人とされ、吉田松陰はじめ幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えており、二宮尊徳楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられている。

 上野国新田郡(現群馬県太田市)の豪農の出で、祖先は南北朝時代新田義貞の有力家臣として高名をはせた。祖母の教育により、幼少から「太平記」を読ませ、「尊皇」こそ祖先への「孝」ときびしく諭したという。このような環境に育ったことが、彦九郎の思想と行動を方向づけた大きな要因である。

 生涯を旅に過ごし、京都・江戸・郷里を拠点に全国各地を遊歴、公家・武士(大名・家老・諸藩士など)・学者(国学者儒学者蘭学者など)・文化人(画家・歌人俳人など)・剣術家・神官・商人・農民など様々な階層の人々と交流、その様子を地域の歴史・地誌・習俗・民情などともに克明な日記に記録している。江戸では儒学者・細井平洲に弟子入りしている。その関係から、米沢藩上杉鷹山とも交流し、米沢の藩政改革(質素倹約・領民第一)を評価している。

京都では公家・岩倉具選宅に寄留し、奇瑞の亀を献上したことにより光格天皇にも拝謁している。

 蝦夷地へのロシアの侵略を危惧していたり、東北地区諸藩の飢饉への無慈悲な対応を糾弾したりと、幕政への不満はかなり高まっていたと思われる。

 元来、国は天皇(朝廷)が治めるものであり、武家は政治を委任されているだけであるという尊皇賤覇思想からも、王政復古への転換を切望していた。しかしこのことから、幕府に「危険思想の芽」として捕縛の対象とされてしまう。

 尊号一件(朝廷と幕府との間に発生した尊号贈与に関する紛議)と呼ばれる事件に遭遇し、公家(中山愛親)の知遇を得たことが、老中の松平定信など幕府の警戒を呼ぶ。九州各地を旅した後に薩摩藩を頼ろうとする(倒幕を勧める)が退けられ、一時は捕縛される。その後も幕府の監視を受け、寛政5年筑後国久留米の友人宅で自刃する。享年46才。辞世の句『朽ちはてて身は土となり墓なくも 心は国を守らんものを』

 朝廷が王政復古を宣言したのは、彦九郎自刃後74年たった慶応3年12月であった。

 「草莽の臣」とは、民間人ながら国に身をささげる臣下という意味。

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