ホリショウのあれこれ文筆庫

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第6話 北嶺大行満大阿闍梨・酒井雄哉師

序文・私が30歳の頃テレビのドキュメンタリー番組で阿闍梨を知り、それ以来尊敬する様になり、書籍をいくつか拝読し、比叡山に会いに行ったりもしました。

                               堀口尚次

 

 比叡山延暦寺の僧侶で、千日回峰行を2度満行した行者に酒井雄哉師がいる。

伝教大師最澄を開祖とする天台宗の総本山・比叡山延暦寺は、延暦寺とう一つの伽藍はなく、東塔・西塔・横川の全山の伽藍の総称である。延暦寺は数々の名僧を輩出しており、主に鎌倉時代において『融通念仏宗良忍、浄土宗・法然浄土真宗親鸞臨済宗栄西曹洞宗道元日蓮宗日蓮』など日本仏教の開祖らが修行していることから、「日本仏教の母山」と言われる由縁である。因みに、比叡山に並ぶ平安仏教のもう一方が高野山真言宗弘法大師空海ということになる。

 千日回峰行は、比叡山中興の祖である慈覚大師・円仁のもと相応和尚が始めたとされ、7年間に亘って行い、1~3年目は年に連続100日、4~5年目は年に200日の歩行行(一日約30km・平均6時間で巡拝)であり「千日」と言われているが、実際に歩くのは「975日」である。途中で行を続けられなくなった時は自害する。そのための「死出紐・降魔の剣(自刃用の短剣)・三途の川の渡り賃である六文銭・埋葬料10万円」を常時携帯している。5年700日を満行すると「堂入り」という最も過酷な行を行う。9日間に亘り、断食・断水・不眠・不臥で不動明王真言を10万回唱え続けるとう荒行だ。酒井師はこの堂入りの時、遠のく意識の中で、線香の灰が崩れ落ちる音が聴こえたと回想している。6年目にはこれまでの行程に京都の赤山禅院への往復が加わり、1日約60kmを100日続ける。7年目には200日行い、始めの100日は全行程84kmに及ぶ京都大回りで、後半100日は比叡山中30kmの行程に戻る。酒井師はこの千日回峰行を2度満行し、北嶺大行満大阿闍梨となり「生き仏」といわれた。

 大正15年生れの酒井師は、予科練をへて特攻隊員として終戦を迎える。戦後は職を転々とし、33才で結婚するが新婚早々に妻が自殺してしまった。39才で得度し比叡山延暦寺に入った。

 飯室不動堂の箱崎文応老師の弟子となり修行を積んだ酒井師は「行く道は いずこの里の 土饅頭(どまんじゅう)」と詩い、行者という者はいつ死んでもいいという覚悟で修行に励んでいたと言う。

 オウム真理教の麻原が伝教大師最澄を批判したのに対して酒井師は「同業者の悪口はいかんわな」とインタビューに答えていた。私は、20才代後半時に比叡山の行者道を5時間かけて歩いた経験(そのまま宿坊に宿泊)がある。また飯室不動堂へ酒井師を尋ねたことがあるが、「今忙しいからだめー」と足早に行かれた思い出もある。「生き仏」のあっけない人間味を垣間見た気がした

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回峰行で雪の比叡山を行する酒井阿闍梨、死に装束で自害用の短刀も刺している。