ホリショウのあれこれ文筆庫

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第3話 郷土の偉人・細井平洲

序文・細井平洲先生は、郷土(愛知県東海市)の人なら知らぬ人はいないという偉人です。東海市(荒尾町)には史跡も多く、更に顕彰に努めたいと思います。

                               堀口尚次

 

 江戸時代の儒学者・細井平洲は、尾張国知多郡平島村(現・愛知県東海市荒尾町)の農家の生れだが、幼くして学問に励んだ。名前は徳民(のりたみ)、通称は甚三郎、平洲は号である。幼少の時の逸話に、隣村の観音寺の寺子屋で松の樹に登り眼下の和尚に「頭の上に足を垂らすとは無礼だぞ」と注意されると、「足ばかりじゃないぞ、今に学問だって先生なんかに負けないよ」とやり返したという。和尚の留守の時は、「いろはうた」の講義のまねごとをするほど利発ぶりを発揮した。

 16歳で京都に遊学し適当な師に会えず苦しんだが、両親から送られた50両でありったけの本を買い求め2頭の馬に積んで帰郷した。その後に名古屋で私塾を開いていた中西淡淵に入門する。更に18歳では長崎にも遊学している。24歳で江戸へ出て私塾「嚶鳴館」を開く。西条藩ら諸藩からも迎えられて講義を行っている。37歳の時に刊行した「嚶鳴館詩集」が好評を博し、当時14歳だった米沢藩主・上杉治憲(後の上杉鷹山)の師となり心血を注いで教育にあたった。53歳で尾張藩のお抱えとなり、藩校・明倫堂の学長となる。

 庶民教育にも力を注ぎ、領内各地で講話を行い大きな功績を遺した。回村講話は引き続き行われ1000人以上の領民が集まることもあった。聴衆の人情の機微をとらえたもので、そのすぐれた話術と共に大きな感動を呼び起こした。聴衆の中には、何を勘違いしたのか感激のあまりお賽銭を投げた者もいたという。

 儒学儒教を行動規範にする教え→後の勤皇思想にもつながっていく)を修めた平洲は、『学・思・行 相まって良となす』という思想が中心にあり、学問と思索と実行が3つ揃って初めて学問をしたということが出来る、と説いた。

西条藩主の上田雄二郎が編集した『嚶鳴館遺草』は、幕末の勤皇思想家・吉田松陰も絶賛し、薩摩藩西郷隆盛にいたっては「政治の道はこの一書に尽きる」とまで言い切っている。平洲の弟子の一人に勤皇家・高山彦九郎がいることから、儒学から勤皇思想への系譜も見逃せない。

 現在の東海市荒尾町には、平洲保育園・平洲小学校・明倫小学校・平洲中学校・平洲記念館等があり、郷土の偉人を偲んでいる。私が小学生だった頃には『平洲記念日』なる日があって、平洲先生の遺徳を偲んだり、教えを勉強したりした。今では、平洲記念館は元より、各学校・図書館・駅・公園等に平洲先生の銅像があるなど、市を挙げて郷土の偉人の顕彰に努めている。私の母方の実家は、平洲先生誕生の地のすぐそばである。

 平洲は、江戸の自宅で74歳で没し、浅草の天獄院に眠っている。

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