序文・昔から修験道の山伏に興味があった。そういえば、仮面の忍者赤影の「白影」も山伏のような恰好をすることがあったような・・・
堀口尚次
日本に古来からあった山岳信仰と、仏教の密教(みっきょう)(天台宗・真言宗)が結びついてできたのが修験(しゅげん)道(どう)だ。修験者(しゅげんじゃ)は山伏(やまぶし)とも呼ばれ、法螺(ほら)貝を吹く独特の装束(しょうぞく)だ。役(えんの)行者(ぎょうじゃ)が開祖とされるが、伝説化しており実在したのか不確(ふたし)かだ。
山岳信仰として有名なのは、「御嶽山の御嶽信仰」や「富士山の浅間信仰」や「出羽三山の羽黒山・月山・湯殿山信仰」などが挙げられる。これらの山々は神仏習合・神仏混淆(こんこう)として、地元の古神道と仏教が融合して生まれたものが多い。神社に神宮寺(神社に附属して建てられた寺院)ができたり、本地(ほんち)垂迹(すいじゃく)といって、仏教の仏が日本の神に代わって現れたとする思想が盛んになったことも、神仏習合を加速させたのだろう。
そんな中、仏教・密教の天台宗や真言宗では、元々山岳修行を行っており、これが日本古来の山岳信仰と結びついて修験道となった。
奈良県・大峰山の修験道も有名で、百日回峰行(かいほうぎょう)などもあり、天台宗との結び付きが感じられる。修験道は、深山(しんざん)幽谷(ゆうこく)に分け入り厳しい修行を行うことによって功徳のしるしである「験力(げんりき)」を得て、衆生の救済を目指す実践的な宗教でもある。修験者は「六根(ろっこん)清浄」と口にして修行するが、六根とは「目・耳・口・鼻・舌・身・意」を清らかにするという事だ。修験道や山岳信仰の本尊として「蔵王権現(ごんげん)」が挙げられるが、これは仏教の「仏様」であるものが、本地垂迹として「権現様」として姿を変えたものだ。「天狗(てんぐ)」も民間信仰において伝承される神・妖怪とされるが、山伏の恰好をしていることから、山岳信仰・修験道との結び付きから来ているようだ。
修験者が、険しい山岳地帯の頂(いただき)から、身を乗り出して修行する姿は、見ているだけで高所恐怖症の私には無理だが、確かに六根どころか性根(しょうね)から叩き直されそうだ。トレードマークの法螺貝は、法具として用い、鳴り響かせることで悪魔降伏を行い、山中を駆け巡る修験者同士のお互いの意思疎通を図る方法としても使われる。
日本では大昔から「山には神が宿る」と伝えられている。映画の「大魔神」も山にいたし、「もののけ姫」の「シシガミ」も山にいた。深山では霊気を感じたり、俗世界を寄せ付けない魔界のような異空間を感じることもある。山岳信仰から修験道が生まれた世界観が納得できる。