序文・真言密教の聖地
堀口尚次
筆者の母親は短歌が趣味で、以前に和歌山県の真言宗の総本山・高野山を訪れた時に「この山を 焼き討ちしたる 信長を 共に弔う 奥の院墓所」という歌を詠んでいる。高野山の奥の院には、名だたる戦国武将の墓があるが、織田信長の墓を目の当たりにした母親が、この歌を詠んだのだ。私へのこの歌の解説はこうだ、「高野山は信長に焼き討ちされながらも、死んで仏となった後は、墓を建てて供養している。仏教とはいかに寛大で慈悲深いものか…」という趣旨のことを言っていたと記憶している。
私は当時は、まだ若かったこともあり「そんなものなのかなぁ」程度の感想だったが、後年歴史などを勉強していくうちに、織田信長が焼き討ちしたのは比叡山〈天台宗〉であり、母親は何か勘違いしていると思った。そしてこのことを母親本人に確認しようと思ったが、当の本人が認知症になってしまい、あの歌を詠んだことすら忘れてしまったのだ。今となっては、歌の真相は闇の中だが、長島一向一揆などで一向宗〈仏教徒〉と敵対苦戦し、比叡山〈天台宗〉を焼き討ちした織田信長が、高野山〈真言宗〉とはいえ仏教の聖地に弔らわれていることは、やはり仏教の寛大さ慈悲深さを感じざるを得ない。
ただ織田信長は高野山〈真言宗〉に対して何もしなかったわけではない。天正9年、高野山が敵対する武将の残党を匿(かくま)ったり、足利義昭と通じるなど信長と敵対する動きを見せる。信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、前年8月に高野山宗徒と敵対する武将の残党との関係の有無を問いかける書状を送り付け、続いて9月21日に一揆に加わった高野聖(ひじり)らを捕縛し入牢あるいは殺害した。このため天正9年1月、根来寺〈新義真言宗本山〉と協力して高野聖が高野大衆一揆を結成し、信長に反抗した。信長は高野山攻めを発令。1月30日には高野聖1,383名を逮捕し、伊勢や京都七条河原で処刑した。10月2日、信長は他の軍勢を援軍として派遣した上で根来寺を攻めさせ、350名を捕虜とした。10月5日には高野山七口から他の軍も加勢として派遣し総攻撃を加えたが、高野山側も果敢に応戦して戦闘は長期化し、討死も多数に上った。
確かに比叡山のような焼き討ちはしていないが、高野山からしてみれば怨みをかってしかるべき相手であることにはかわりないのだ。