ホリショウのあれこれ文筆庫

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第150話 大政奉還の裏側

序文・政権返上には、駆け引きがあった。

                               堀口尚次

 

 大政奉還とは「慶応3年10月14日に江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜が政権返上を明治天皇へ上奏し、翌15日に天皇が上奏を勅許したこと」と、教科書には書いてあるが、裏側では幕府と薩長らとのすさまじい駆け引きが行われていたのだ。これには、土佐藩からの大政奉還を勧める建議書も関わっている。

 薩長岩倉具視らを中心とする倒幕派は、なんとかして徳川幕府を武力で倒すことに主眼を置いていた。そんな中、徳川慶喜は倒幕する「大義名分」を無くすためにも、政権を返上してしまえばいいと考えた。慶喜は、たとえ政権を返上しても、今の天皇(朝廷・公家)には、政治(国の運営)が出来ないことは明白であり、いずれ続行して徳川家が中心となって政権運営をすることになるだろうと読んでいた。しかし、薩長側はこれに対して、クーデターで「王政復古」をなしとげてしまった。こうして慶喜の計画が少づつおかしくなっていく中、西郷隆盛の謀略により、江戸薩摩藩邸焼討事件をきっかけに、鳥羽伏見の戦いとなり、気が付けば慶喜は「朝敵」となってしまった。尊皇思想の強い慶喜は、当然に謹慎恭順するが、幕軍の怒りは収まらなかった。

 以下に、慶喜天皇に上奏した「大政奉還上奏文」を記す。

『陛下の臣たる慶喜が、謹んで皇国の時運の沿革を考えましたところ、かつて、朝廷の権力が衰え相家(あいや)(藤原氏)が政権を執り、保平の乱(保元の乱平治の乱)で政権が武家に移りましてから、祖宗(そそう)(徳川家康)に至って更なるご寵愛を賜り、二百年余りも子孫がそれを受け継いできたところでございます。そして私がその職を奉じて参りましたが、その政治の当(とう)を得ないことが少なくなく、今日の形勢に立ち至ってしまったのも、ひとえに私の不徳の致すところ、慙愧(ざんき)に堪えない次第であります。ましてや最近は、外国との交際が日々盛んとなり、朝廷に権力を一つとしなければもはや国の根本が成り立ちませんので、この際従来の旧習を改めて、政権を朝廷に返し奉り、広く天下の公議を尽くした上でご聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して、共に皇国をお守りしていったならば、必ずや海外万国と並び立つことが出来ると存じ上げます。私が国家に貢献できることは、これに尽きるところではございますが、なお、今後についての意見があれば申し聞く旨、諸侯へは通達しております。以上、本件について謹んで上奏いたします。』と、どこまでも尊皇なのであった。

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※京都二条城で大名を前に大政奉還を発表する徳川慶喜