ホリショウのあれこれ文筆庫

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第210話 混血孤児の運命

序文・ママー・ドゥ・ユー・リメンバー

                               堀口尚次

 

 GIベビーとは、連合国軍占領の日本で、GI(アメリカ軍やイギリス軍兵士)を中心とした連合国軍兵士と日本人女性との間に生まれた乳幼児や子供である。養育困難などの理由でしばしば孤児になり、「混血孤児」とも呼ばれた。エリザベス・サンダースホーム(児童養護施設)の創立者沢田美喜らは孤児の米国移住を働きかけた。なお、イギリス連邦占領軍は人種差別の観点から日本人女性との交際禁止策を取っていたため、将兵は恋愛感情があろうとも日本女性との結婚許可を取ることはできず、これに違反して子供が生まれたことが見つかってしまった場合は、強制的に家族から離される事になった。1952年にこの禁止令は解かれ、何百人もの戦争花嫁がオーストラリアやイギリスに向かったが、これによる悲劇が多数起きたと報告された。

 厚生省中央児童福祉審議会は1952年8月13日に有識者20名からなる混血児問題対策研究会を設置した。1952年の神奈川県社会福祉協議会のまとめによると、同県内の施設にいた混血児は276人で、これは当時の日本の児童福祉施設の混血児の過半数に当たったとされる(横須賀基地・厚木飛行場・キャンプ座間があったためだと考えられる)。

 1953年に厚生省が行った調査によると、国内に4972人のGIベビーがいた。一方当時エリザベス・サンダースホームの創立者沢田美喜はGIベビー20万人説を発表したが、パール・ザック財団の調査によると、実数は非常に掴みにくいものの実際には少なくとも当時日本国内に2-3万人くらいのGIベビーが存在するだろうと言われていた。

 1955年に琉球政府文教局が、1961年に中部地区社会福祉協議会が、1975年に沖縄県教育振興会と沖縄協会が、沖縄での混血児の実態を調査した。1972年、沖縄返還に伴い、アメリカの施政権下の沖縄で生まれた混血児の国籍の問題が国会で議論された。

 1959年の受田新吉の質問に対する当時厚生省児童局長)の国会答弁によれば、1959年時点で厚生省は国内の戦争混血児の数を集計していなかった。

 第二次世界大戦後に日本占領のためにやってきたアメリカ軍兵士を中心とした連合国軍兵士と日本人女性の間に強姦や売春、あるいは自由恋愛の結果生まれたものの、両親はおろか周囲からも見捨てられた混血孤児たち(GIベビー)の運命は、差別と偏見との戦いの歴史だった。映画「人間の証明」では、孤児ではなかったが、混血児の男が日本人の母を訪ねて来るところから話しが始まっていた。戦争の爪痕は、こんなところにもあったのだ。

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