ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第356話 鏡の松

序文・松は神が宿る木

                               堀口尚次

 

 鏡の松とは、能舞台で、鏡板〈能舞台の背面にある板壁〉に描かれる老松の絵。奈良春日神社の「影向(ようこう)  の松」を写すという。影向とは神仏が姿を現すことで、影向の松は神仏が現れるときの依代(よりしろ)となるものだ。松は神の依代といい、神が宿る木とされてきた。

 松が描かれているのは鏡板といい、板ではなく鏡、舞台の前に立っている松が鏡に写っているという設定になっている。松は客席側にある設定だ。つまり、板を鏡に見立てているのだ。板〈鏡〉に松が映っているから鏡板という。

 春日明神の化身である松が観客席の側に存在しており、それを鏡のように映したものが鏡板であることから、つまり舞台上の役者は観客ではなく神に向かって演じているというのだ。

 昔は、神社で能が演じられていたころ、境内(けいだい)の松に向かって演じていた。それを能舞台に再現したというわけだ。松は寿の字のような格好だが、鏡板の絵は鏡に写っているという想定だから、寿の字を逆さまにした形をしている。神仏に守られて能を舞うという舞台装置になっているのだ。

 能舞台に鏡板が付いたのは江戸時代になってからのことで、それ以前は吹き抜け舞台であった。一説には、松平氏である徳川幕府が意識して松にしたとの説もある。 

 因みに、能舞台には松だけでなく竹も描かれている。松は樹齢を重ねた老松だが、竹は若竹が描かれる。竹は成長が早く、繁殖力があり、子孫繁栄のシンボルとされる。 松も竹も目に見えるかたちとして存在するが、梅は演者であり観客だといわれる。演者の演技〈仕舞い・謡い〉で観客と世界観を共有することで梅の花が咲くという。能や日本の伝統文化の深いところだ。演者は梅、観客もまた梅、目に見えるものだけがすべてではないことを、この考えは教えてくれる。

 日本の伝統文化は、神との結びつきがあり、いわゆる神聖なものであることが分かる。国技である大相撲にしても、土俵は神が宿る神聖なところとされる。

神社に神が宿るのは自明の理だが、日本人は山などの自然にも神が宿ると信じてきた。そして文化芸能の世界にも神を宿して伝承してきたのだ。そして松竹梅は、縁起がいいとされ重宝されてきたのだ。