ホリショウのあれこれ文筆庫

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第871話 軍神・広瀬武夫

序文・清水次郎長との逸話

                               堀口尚次

 

 広瀬武夫慶應4年 - 明治37年〉は、日本の海軍軍人、柔道家。戦前は軍神として神格化された。

 明治37年より始まった日露戦争において旅順港閉塞(へいそく)作戦に従事する。第二回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七郎上等兵がそのまま戻ってこないことに気付いた。広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。35歳だった。5日後、広瀬の遺体は福井丸の船首付近に浮かんでいるところをロシア軍によって発見された。戦争中であったが、ロシア軍は栄誉礼(えいよれい)をもって丁重な葬儀を行い、陸上の墓地に埋葬した。

 こうして広瀬は、日本初の「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には昭和10年に首相・岡田啓介らと地元の黒川健士ほか数百名の手により広瀬を祀る広瀬神社が創建された。また文部省唱歌の題材にもなる。また、直撃を受けた際、近くにいた兵のそばを飛び散った肉片がかすめていった。その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が靖国神社遊就館に奉納されており、時折展示されている。また、広瀬が戦死した際に所持していた血染めの海図が、朝日の乗員から講道館に寄贈され、その後も講道館2階の柔道殿堂に展示されている。嘉納治五郎(かのうじごろう)〈柔道の父・日本の体育の父〉は、広瀬の才能を高く評価していた。広瀬の戦死の報が伝えられた時、嘉納は人目もはばからず「男泣きに泣いた」という。

 見習い士官だった頃、駿州の清水港に上陸する機会があった。この時、広瀬を含む50名程度の海軍軍人が名代の侠客・清水次郎長を訪ねた。次郎長は座中一同を見渡し「いや、こう見たところで男らしい男は一匹もいねぇな」と言い放ったため、座中の中から広瀬が現れ「おうおう、そう言うなら、一つ手並みを見せてやるから、びっくりするな」と言って、いきなり鉄拳を固めて自分のみぞおちを50、60発続けざまに殴った。これには次郎長も「なるほど、お前は男らしい」と感心し、お互いに胸襟(きょうきん)を開いて談話をしたという逸話が残されている。