ホリショウのあれこれ文筆庫

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第250話 悲運の殿様・松平容保(かたもり)

序文・尊皇と佐幕の狭間に生きた殿様

                               堀口尚次

 

 幕末の会津藩主だった松平容保が、京都守護職を拝命した時、家老らは急ぎ会津より到着し、京都守護職就任を断る姿勢を取った。家臣たちは容保に謁し「このころの情勢、幕府の形勢が非であり、いまこの至難の局に当たるのは、まるで薪を背負って火を救おうとするようなもの。おそらく労多くして功少なし」と、言辞凱切(げんじがいせつ=言葉がよく当てはまる)、至誠面(極めて真剣に)にあふれて戒める。

 しかし容保は、「それはじつに余の初心であったが台命しきりに下り臣子の情誼(じょうぎ=人情や誠意)としてもはや辞する言葉がない。聞き及べば余が再三固辞したのを一身の安全を計るものとするものがあったとやら。そもそも我家には宗家と盛衰存亡を共にすべしという藩祖公の遺訓がある。余不肖といえども一日も報效(ほうこう=恩に感じて力を尽くす)を忘れたことはない。ただ不才(ふさい=才能が乏しい)のため宗家に累を及ぼすことを怖れただけである。他の批判で進退を決めるようなことはないが、いやしくも安きをむさぼるとあっては決心するよりほかあるまい。しかし、重任を拝するとあれば我ら君臣の心が一致しなければその効果は見られないだろう。卿(きょう=この場合は信頼する家臣)ら、よろしく審議をつくして余の進退を考えてほしい」とのことであったので、家臣いずれも容保の衷悃(ちゅうこん=真心)に感激し、「この上は義の重きにつくばかり、君臣共に京師の地を死に場所としよう」と、君臣肩を抱いて涙したという

 結局、時局は薩長を中心とした新政府軍による討幕となり、容保は恐れ多くも朝敵となってしまった。しなしながら容保は、京都守護職の際に、孝明天皇より宸翰(しんかん=天皇自筆の文書)ならびに御製2首を賜っており、「公卿達が暴論をつらね、その不正や増長は耐え難く、その方へ内命を下したところ速やかな憂患掃攘と朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠にて、深く感悦の余り…」と天皇は容保の忠誠を称えていたのだ。容保は、この宸翰を終生手放さなかったという。明治期になって、容保の実兄である旧尾張藩主・徳川義勝から容保に尾張徳川家相続の話がもちかけられたが、容保は辞退した。「自分の不徳から起こった幕末の動乱で苦難を蒙(こうむ)った人々のことを思うと、自分だけが会津を離れて他家を接ぐわけにはいかない」と答えたと言う。

 藩主就任時から亡くなるまで長きにわたって容保に仕えた小姓の残した記録の中に、容保の人柄に関する記述がある。「喜怒の感情を表に出さない人柄だったが、先帝〈孝明天皇〉と先の将軍家〈徳川家茂〉の御恩は始終胸中にあったようだ」「何十年御側にいても、切迫した様子を見せたことがなく、また他人が切迫しているのを見るのも嫌っていた。実に春風の中に座っているような方だった」さりながら「思い込んだらその意見は必ず通すという側面もあった」と書き残している。晩年は、日光東照宮宮司に任じられている。

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