ホリショウのあれこれ文筆庫

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第399話 曽我兄弟の仇討ち

序文・北条時政は曽我兄弟の烏帽子親

                               堀口尚次

 

 曽我兄弟の仇討ちは、建久4年、源頼朝が行った「富士の巻き狩り」の際に曽我祐成(すけなり)曽我時致(ときむね)の兄弟が父親の仇である工藤祐経(すけつね)富士野にて討った事件。「赤穂浪士の討ち入り」と「伊賀越えの仇討」に並ぶ、日本三大仇討ちの1つである。

 曽我兄弟の仇討ちは、駿河国富士野〈現在の静岡県富士宮市〉で発生した。兄の曽我十郎祐成〈一万〉が22歳、弟の曽我五郎時致〈箱王〉が20歳の時のことであった。真名本『曽我物語』によると、仇討ちの発端は安元2年に兄弟の父である河津祐泰(かわづすけやす)が伊豆国奥野の狩庭で工藤祐経の郎従に暗殺されたことによる。祐泰が31歳、一万が5歳、箱王が3歳の時のことであった。祐経は「心を懸けて一矢射てむや」と伊東荘を中心とする所領相論の相手であり妻〈万劫〉を離縁させた人物でもある伊東祐親(すけちか)の暗殺を郎従に命じていたが、実際は矢は祐親ではなく祐泰に命中し非業の死を遂げた。その敵にあたる祐経を曽我兄弟が討った事件〈兄弟の母が曽我祐信(すけのぶ)と再婚したため兄弟は曽我姓を名乗る〉。

 仇討ちの翌日に頼朝は五郎〈弟〉の尋問を行い、有力御家人らがそれに同席し、その他多くの者も群参した。尋問を終えその堂々とした振る舞いを見た頼朝は「(あっぱ)れ男子の手本や。これ程の男子は末代にもあるべしとも覚えず」と称賛する。頼朝は五郎の勇姿から宥免(ゆうめん)を提案するが、祐経の子である犬房丸の訴えにより同日梟首された。その翌日には同事件が北条政子に飛脚で知らされ、また兄弟が母へ送った手紙が召し出され、頼朝が目を通している。頼朝は手紙の内容に感涙し、手紙類の保存を命じた。そして祐成の妾の虎を始めとする多くの人物に対して聴取が行われ、虎は放免されている。その後に頼朝は鎌倉に向けて出発し、富士野を後にした。このとき頼朝は曽我荘の年貢を免除することを決定し、また曽我兄弟の菩提を弔うよう命じた

 近代には教科書にも採用され、尋常小学校の教科書に曽我物語の要約、高等小学校の教科書や高等女学校の国語読本に能「小袖曽我」が掲載されるなどしている。一方GHQによる検閲で仇討ち物は忌避されたため、一般への認知に影響を与えたと指摘される。

 一説には、黒幕として北条時政が暗躍しているとも言われている。