ホリショウのあれこれ文筆庫

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第400話 陸軍中野学校

序文・日本にあったスパイ養成所

                               堀口尚次

 

 陸軍中野学校は、諜報防諜宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を目的とした大日本帝国陸軍軍学校〈実施学校で、情報機関かつての所在地は東京都中野区中野4丁目付近で、校名の中野は地名に由来する。

 創設の動きは昭和12年、戦争形態の加速度的進化で謀略の重要性が増し、日本が世界的な潮流からの停滞を余儀なくされることを怖れた岩畔豪雄(いわくろひでお)中佐が、参謀本部に「諜報謀略の科学化」という意見書を提出したことに始まる。同年末、陸軍省が中心となってその創設を決定。岩畔中佐らを中心として昭和13年3月に「防諜研究所」として新設。同年7月より特種勤務要員〈第一期学生19名〉の教育を開始した。昭和14年5月に同研究所は「後方勤務要員養成所」に改編、7月には第一期学生の卒業を迎える。昭和15年には「陸軍中野学校」と改名し、昭和16年には参謀本部直轄の軍学校へ転身する。その存在は陸軍内でも極秘とされていた。

 学生は軍服を着用せず、また任務の性質上、一般人のなかでも目立ちにくいように普段から平服姿に長髪でいる事が推奨されていた。そのため、里帰り時には親から軍人にあるまじき姿を叱責され、スパイとして教育を受けている以上は親にも理由を明かせず、言い訳もできず苦労したと言われる。また、軍刀を佩用(はいよう)〈身体につける〉し長靴を履き将校軍服を着る陸軍将校に憧れ陸軍を志した手前、入校当初には落胆する者も存在した。

 八紘一宇(はっこういちう)、大東亜共栄圏といったスローガンは一顧(いっこ)だにされず、「戦時中で最も自由主義的ではなかったか」と回顧する出身者もいる。また、天皇に対する見方も自由であり、学生や教官の間で天皇の是非が討論される事もしばしばだったという。敵性語たる英語使用の自粛も全く行われず、むしろ諜報能力を養成する関係から外国語の技能は必須であり、英会話することを推奨された。

 二俣分校を含む卒業生の総数は2,500余名である。8月15日の敗戦をもって閉校したが、その一部は以降も国内外で活動を継続していたと見られ、占領軍に対するゲリラ攻撃を計画するなどしていたという。中には身分を偽装してGHQに潜入し内部撹乱を図った者もおり、GHQの対日工作機関キャノン機関の破壊に成功したという説もある。また、インドネシア独立戦争や、インドシナ戦争を始めとする戦後の東南アジアの独立戦争に携わった卒業者も多くいた。