ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1008話 鍵屋の辻の決闘

序文・外様大名vs旗本

                               堀口尚次

 

 鍵屋の辻の決闘は、寛永11年11月7日に渡辺数馬荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎伊賀国上野の鍵弥の辻三重県伊賀市小田町で討った事件伊賀越の仇討ちとも言う。

 後世に歌舞伎や講談などの題材となった。曾我兄弟の仇討ち赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ

 寛永7年、岡山藩主・池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫藩士・河合又五郎が横恋慕して関係を迫るが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害してしまった。又五郎は江戸へ逐電(ちくでん)〈すばやく逃げて行方をくらます〉、旗本の安藤次右衛門にかくまわれた。激怒した忠雄は幕府に訴え出て又五郎の引渡しを要求するが、安藤ら旗本衆はこれを拒否し、忠雄を中心とする外様大名と旗本らの争いに発展した。

 しかし、寛永9年、忠雄が疱瘡(ほうそう)のため急死した。よほど無念だったのか、死に臨んで又五郎を討つよう遺言する。池田家では子の光仲が家督を継いだが、幼少のため因幡国鳥取へ国替えとなる。藩は国替えとなったが数馬は仇討ちのためにこれに従わず脱藩した。同年7月、渡辺数馬は備前小島から大和国に向かった。数馬は姉婿で剣術の達人でもある荒木又右衛門に助太刀(すけだち)を依頼。数馬らは江戸や京都など東海道を行き来して又五郎の探索を行った。寛永11年、数馬ら渡辺方は又五郎の居場所を突き止めた。

 そして11月7日、小田町の伊賀上野城下の入口にある鍵屋の辻で決闘は行われた。数馬ら渡辺方は4人であった。一方の河合方は10人としている。仇討は早朝からおよそ6時間に及び、この時の死者は渡辺方が1人、河合方が又五郎を含め4人だった。見事本懐を遂げた数馬と又右衛門は世間の耳目を集めた。特に、実質仇討ちを主導した荒木又右衛門は賞賛を浴びた。

 3人は彦坂嘉兵衛に引き取られた後、藤堂出雲守に預けられた。この間、鳥取藩が引き取るか、旧主の郡山藩が引き取るかで紛糾。結局、3人は鳥取藩が引き取ることになり、寛永15年に伊賀を出発して伏見を経て鳥取へと向かった。8月13日、3人は鳥取に到着するが、その17日後に鳥取藩は又右衛門の死去を公表した。又右衛門の死があまりに突然なため、毒殺説、生存隠匿説など様々な憶測がなされている。