ホリショウのあれこれ文筆庫

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第912話 乾退助あらため「板垣正形→板垣退助」

序文・甲斐源氏家臣の末裔

                               堀口尚次

 

 板垣退助天保8年 - 大正8年は、日本の政治家、軍人〈土佐藩陸軍総督〉、武士〈土佐藩士〉。従一位勲一等伯爵。明治維新元勲自由民権運動の指導者東アジアで初となる帝国議会を樹立し「国会を創った男」として知られる伊藤博文大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人。また、常に国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。神道」の立場から理神論を唱えた。

 退助は朝廷より東山道先鋒総督府参謀に任ぜられ、京都を出発し東山道を進軍した。この京都を出発した日が乾(いぬい)退助の12代前の先祖・板垣信方(もぶかた)の320年目の命日にあたる為、幕府直轄領である甲府城の掌握目前の美濃で、武運長久を祈念し「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」との岩倉具定〈岩倉具視の子・東山道鎮撫総督〉等の助言を得て、板垣氏に姓を復した。

 慶応4年、退助の率いる迅衝(じんしょう)隊が、美濃大垣に到着。次の進軍路の甲府は幕領であったが、圧政に苦しみ徳川藩政を快く思わず、武田信玄の治世を懐かしみ尊敬する気風があった退助岩倉具視の助言を容れ軍略を練り先祖・板垣信方武田信玄の家臣〉ゆかりの甲州進軍に備え、名字を板垣に復し「板垣正形」と名乗る。名将・板垣信方の名に恥じぬよう背水の陣で臨んだ。ちなみにこの時の板垣の佩刀(はいとう)は先祖伝来の備前長船則光〈室町期、刀身52.7 cm〉である。

 東山道〈現・中山道〉を進む東山道先鋒総督府軍は、下諏訪で本隊と別働隊に分かれ、本隊は伊地知正治土佐藩士〉が率いてそのまま中山道を進み、板垣退助の率いる別働隊〈迅衝隊〉は、案内役の高島藩一箇小隊を先頭に、因州鳥取藩兵と共に甲州街道を進撃し、幕府の天領であった甲府を目差す。甲府城入城が戦いの勝敗を決すると考えた板垣退助は、「江戸~甲府」と「大垣~甲府」までの距離から東山道先鋒総督府軍側の圧倒的不利を計算した上で、急ぎに急ぎ、あるいは駆け足で進軍。甲州街道を進んで、土佐迅衝隊〈約100人〉と、因幡鳥取藩兵〈約300人〉らと共に、甲府城入城を果した。

 一方、幕軍側・大久保大和〈近藤勇〉は「城持ち大名になれる」と有頂天になり「甲府を先に押さえた方に軍配が上がる」という幕閣の忠告を軽視し、新選組70人、被差別民200人からなる混成部隊の士気を高めるため、幕府より支給された5,000両の軍資金を使って大名行列のように贅沢に豪遊しながら行軍し、飲めや騒げの宴会を連日繰り返した。行軍途中の日野宿で春日隊40人が加わる。ところが天候が悪化し行軍が遅くなり、甲府到着への時間を空費したため、移動の邪魔となった大砲6門のうち4門を置き去りにして2門しか運ばなかった。しかし、悪天候に悩まされたのは両軍とも同じで、官軍・板垣たちは泥濘(ぬかるみ)に足を取られながらも武器弾薬を運び必死の行軍を続け入城した。

 板垣退助らより一日遅れて、大久保大和〈近藤勇〉の率いる甲陽鎮撫隊甲府に到着したが、板垣らが城を固めていたため入城を果たせず、近藤は応援要請のため、土方歳三を江戸へ向わせる一方で、自身は甲州街道と青梅街道の分岐点近くを「軍事上の要衝である」として柏尾の大善寺を本陣にしようとする。ところが「徳川家康の時代から伝わる寺宝を戦火に巻き込まないで欲しい」と寺から頑なに拒否され、やむなく大善寺の西側に先頭、山門前及び、東側から白山平に伸びる細長い陣を布かざるを得なかった。さらに、当初310人いた兵卒は次第に皇威に恐れをなして脱走し、121人まで減る。

 土方は神奈川方面へ赴き旗本の間で結成されていた菜葉隊に援助を求めるが黙殺される。正午頃、柏尾坂附近で甲陽鎮撫隊が官軍に対して発砲したことを発端として戦闘が始まったが、甲陽鎮撫隊は近代式戦闘に不慣れで、大砲の弾を逆に装填して撃った為、照準が定まらず、支給されたミニエー銃の扱いにも窮し敵陣に抜刀戦を仕掛けるという愚を犯し銃弾を浴びて壊滅。洋式兵法にも精通していた迅衝隊がこれを撃破するのは容易く、甲陽鎮撫隊は、戦闘を放棄して脱走する兵が後をたたなかった。新選組原田左之助永倉新八らが兵を叱咤し、近藤勇が「会津の本隊が援軍に来る」と虚言を用いても、脱走兵を食い止めることが出来ず、戦闘が始まって僅か約2時間〈資料によっては1時間〉で本陣が突き崩されて勝敗がつき、甲陽鎮撫隊は山中を隠れながら江戸へ敗走。板垣退助迅衝隊の大勝利となった

私見】こうして「乾」から、名字を「板垣」に戻し、武田信玄の名将だった祖先「板垣正方」にあやかり、自分を「板垣正形」と名乗った「板垣退助」は、旧幕府軍新選組残党・甲州鎮部隊など〉を撃破したのだ。甲斐源氏武田信玄の家臣を祖にもつ板垣退助が、先祖ゆかりの甲州の地で活躍できたのも、武田信玄の治世を懐かしみ尊敬する甲州人との深い因縁があったからなのかも知れない。

勿論、官軍側に「錦の御旗」が翻(ひるがえ)った皇威の影響も計り知れない。

※迅衝隊・前列中央が板垣退助