ホリショウのあれこれ文筆庫

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第913話 鈴ヶ森刑場

序文・江戸時代の処刑場

                               堀口尚次

 

 鈴ヶ森刑場は、東京都品川区にかつて存在した刑場。江戸時代には、江戸の北の入口〈日光街道〉沿いに設置されていた小塚原刑場とともに、南の入口〈東海道〉沿いに設置されていた刑場であった。

 元々この付近は海岸線の近くにあった1本の老松にちなんで「一本松」と呼ばれていたが、この近くにある鈴ヶ森八幡〈現・磐井神社〉の社に鈴石〈振ったりすると音がする酸化鉄の一種〉があったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになったという。また異説には刑場が設けられる以前の慶長5年関ヶ原に向かう徳川家康庄司甚左衛門が目通りした際に磐井神社近辺で陰間茶屋を設けて徳川軍一行をもてなし、暖簾の端に鈴を結び付けて出入りの時鳴るようにした。その音が鳴り響いたので鈴ヶ森と呼ばれたという

 慶長20年に高輪大木戸近くに開設された芝高輪刑場、芝口門〈札ノ辻〉に作られた芝口札ノ辻刑場が、手狭になったため、慶安4年開設される。

 元禄8年測量された検地では、間口40間〈74メートル〉、奥行9間〈16.2メートル〉、であったという。明治4年閉鎖される。220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われているが、はっきりした記録は残されていない。当時は東京湾沿いにあり、刑場近くの海で水磔(すいたく)〈罪人を逆さ吊りにし潮が満ちると溺死させる処刑方法〉による処刑も行われたとの記録も残されている。

 当時の東海道沿いの、江戸の入り口とも言える場所にあるが、刑場設置当時浪人が増加し、それにともない浪人による犯罪件数も急増していたことから、江戸に入る人たち、とくに浪人たちに警告を与える意味でこの場所に設置したのだと考えられている。

 最初の処刑者は江戸時代の反乱事件「慶安の変」の首謀者のひとり丸橋忠弥であるとされている。反乱は密告によって未然に防がれ、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われた際に死んだが、改めて磔刑にされた。その後も、平井権八天一坊、八百屋お七といった人物がここで処刑された。