ホリショウのあれこれ文筆庫

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第126話 シャムへ渡った山田長政

序文・シャムの地方国王にまでなった日本人が江戸時代前期にいた

                               堀口尚次

 

 山田長政(ながまさ)は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。通称は仁左衛門(にざえもん)。出生は駿河国とされるが、伊勢国尾張国とする説もある。沼津藩主・大久保忠佐〈有名な大久保彦左衛門の兄〉に仕え、駕籠かきをしていたが、その後朱印船で長崎から台湾を経てシャムに渡った。後に、日本人義勇軍傭兵隊(ようへいたい)〈雇われ兵隊・日本の浪人が活躍〉に加わり、頭角を現しアユタヤー郊外の日本人町の頭領(とうりょう)〈集団のかしら〉となった。その後、アユタヤ国王より高官に任せられ王女と結婚したという伝説が生まれたが、シャム側の記録に該当する人物が見られないことから、その歴史的実像は明らかでない部分が多い。長政は、スペイン艦隊の二度に渡るアユタヤ侵攻をいずれも退けた功績で、アユタヤー王朝の国王ソンタムの信任を得て、シャムの王女と結婚。第三位であるオークヤー・セーナーピムックという最高官位欽(きん)賜(し)名〈王から下賜(かし)される呼称〉を授けられ、チャオプラヤーに入る船から税を取る権利を得た。ソンタム王の死後、長政はソンタム王の遺言に従い、国王に近いシーウォーラウォンと共同でチャーター親王を王に即位させた。しかし、チェーター王はシーウォーラウォンに不審を抱き排除しようとして失敗し、シーウォーラウォンに処刑された。 その後、処刑されたチェーター王の弟が即位したが、あまりに幼すぎるので、官吏らはそのころ、国王になれる資格に昇進していたシーウォーラウォンに王位につくように願った。長政はこれに頑固に反対したために、宮廷内で反感を買った。この時、当時アユタヤの貿易を独占していた日本人勢力と対立関係にあった華僑の勢力の圧力が宮廷内に及び、長政はリゴール(地方の一国)の防衛を理由にリゴール王に封じられ、シーウォーラウォンによって左遷された。長政は、パタニ軍との戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの膏薬を塗られて死亡した。毒殺はシーウォーラウォンの密命によるものとオランダの史料は記している。その後、ナコーンシータマラートの知事は息子が引き継いだが、内部対立があり同じ日本人傭兵によって殺され、長政の死と同じ年に、シーウォーラウォンは「日本人は反乱の可能性がある」とし、アユタヤ日本人町は焼き打ちされた。こうして長政は「移住を余儀なくされた浪人やキリシタン存続の為に奮闘した悲劇の指導者」にされたり、戦時中には、大東和共栄圏の思想から「異国の地で活躍した英雄」にされたりした。

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