ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第125話 ラッパ手・木口小平

序文・有名な木口小平が二人いたとは・・・?!

                               堀口尚次

 

 木口小平(きぐちこへい)は、日清戦争で戦死した日本陸軍兵士ラッパ手として、死しても口からラッパを離さなかったとされた。その逸話は明治35年から昭和20年まで小学校修身教科書に掲載され、戦前の日本においては広く知られた英雄であった。

 木口は、戦闘中突撃ラッパを吹いている最中に被弾。銃創により出血し倒れ、絶命した後も口にはラッパがあったという。これは本人の精神力というよりも、死後硬直が原因であると指摘されている。

 死しても尚ラッパを口から離さなかったラッパ手の噂話は、早くに内地に伝えられた。そのラッパ手は誰かということが話題となり、軍は調査の結果そのラッパ手は実在し、名は「白神源次郎」であると発表した。岡山県浅口郡船穂村(後の倉敷市)出身の歩兵一等卒・白神源次郎の武勇は国民に広く伝えられ、また海外にも発信された。教科書にも採用され7年後に名前を変えられるまで使われた。

 日清戦争後に、第五師団司令部は「諸調査ノ結果彼ノ喇叭手ハ白神ニ非ズシテ木口小平ナルコト判明セリ」と発表しなおした。白神は入営当時21連隊のラッパ手であったが予備役召集の時点ではラッパ手ではなかった。木口はラッパ手であり白神と同日の戦死であった。なお白神の死因が戦闘中の溺死であったことも「不都合」とされた。師団発表当時はまったく無名の木口に名前が置き換わったことに国民の間に驚きもあったし、すでに有名になっていた白神源次郎の名前はなかなか改まらなかった。

 白神源次郎の記念碑は明治39年に立てられたが、木口小平の記念碑がたてられたのは大正3年になってからである。義務教育の無償化と明治36年に始まった国定教科書制度で、木口の名前が国民全体に徐々に浸透し、木口の顕彰も盛んになった。故郷である岡山県川上郡成羽町(現在の高梁市成羽)に「壮烈喇叭手木口小平之碑」がつくられた。さらに、昭和7年になると、歩兵第21連隊が軍人勅諭下賜50周年事業として銅像を造った。岡山招魂社に収められた写真の中から、木口らしい写真を選び出して銅像の元にしたが、これは木口の顔ではないとの異論もあった。このころ成羽町の碑の周りは「小平園」として整備された。21連隊の銅像は昭和25年に濱田護国神社に移転されている。

 明治35年に発売され、後年正露丸と改称される胃腸薬の「忠勇征露丸」に描かれているラッパのマークは木口の話を参考にした、との逸話が在るが、これは年代的には白神源次郎の話ということになる。

f:id:hhrrggtt38518:20211030145029j:plainf:id:hhrrggtt38518:20211030145621j:plain

※修身教科書より