ホリショウのあれこれ文筆庫

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第630話 消えた近藤勇の首

序文・岡崎にある首塚伝説

                               堀口尚次

 

 近藤勇天保5年- 慶応4年は、江戸時代末期の武士。新選組局長。後に幕臣に取り立てられ、甲陽鎮撫隊隊長。

 新政府軍は流山に集結した新選組が背後を襲う計画を知り、近藤を捕縛する。近藤捕縛は史料により状況が異なり、越谷(こしがや)の政府軍本営に出頭したとする記録もある。

 しかし、大久保〈偽名〉が近藤勇と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が置かれた板橋宿まで連行される。 板橋宿平尾の脇本陣豊田家に幽閉され、板橋宿本陣にて連日取り調べが行われた。近藤は大久保の名を貫き通したが、元隊士で伊東甲子太郎率いる御陵衛士だった者に近藤であると看破(かんぱ)〈見破られ〉され、結局捕縛された。その後、土佐藩薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、結局土佐藩が押し切り、慶応4年4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首された。享年35。首は京都の三条河原で梟首(きょうしゅ)〈晒(さら)し首〉された。その後の首の行方は正式に確定されていない

 愛知県岡崎市の法蔵寺は、元々は法相宗の古刹であった。徳川家の始祖・松平親氏が伽藍を建立して、松平家菩提寺とした。徳川家康〈幼名・竹千代〉が、時の住持・教翁上人に就いて、読書きを習ったという〈硯箱・硯石・手本・机などが残っている〉。徳川家康東照大権現として祀る東照宮もある。

 この寺に、伝近藤勇首塚がある。三条大橋に晒されていた首を斎藤一新選組隊士〉が奪取し、三条大橋側の誓願寺にいた孫空義天に供養を依頼し、義天の異動に伴って当寺に埋葬されたとされる。当初は世間の目もあったので、石碑は土で埋められ、無縁仏の様にしていた。

 私は過日、法蔵寺を訪れ首塚を確認した。はたして近藤勇の首はここにあるのだろうか。それは誰にもわからないが、幕末歴史ロマンの謎は、間違いなくそこにあった。