ホリショウのあれこれ文筆庫

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第205話 3年間だけ大宮島だったグアム島

序文・グアム島統治の歴史

                               堀口尚次

 

 日本軍によるグアムの占領は、第二次世界大戦の間の1941年から1944年までの時代のことである。このときグアム島は大宮(おおみや)島と改名されていた。戦後28年間、この島に潜伏していたのが有名な横井庄一さんだ。

 占領期間中、チャモロ人は軍事占領による困苦に耐えることを強いられた。 最初の4ヶ月、島はアガナの学校や政府の建物で生活していた日本軍により統制されていた。チャモロ人は日本のお辞儀の習慣を学ぶことを要求され、日本円は島の通貨となり、文民の問題は民政省と呼ばれる軍の支部により取り扱われた。車、ラジオ、カメラは没収され、食料は物資が尽きるまで配給された。チャモロ人は日本語と日本の習慣を学ぶことを求められた。英語は禁止された。大人子供は読み書き、数学、日本のゲームや歌を教えられた。

 日本の戦況が悪化すると、日本軍の現地部隊は新たに厳格な軍政「カイコンタイ」を敷いた。これにより、社会活動の中止、学校の閉鎖など自由な活動が制限されるとともに、チャモロの男性、女性、そして12歳以上の子供が徴用され、滑走路、防衛施設、壕の建設や修理に従事した。チャモロ人は酷使され、防衛施設完成後に処刑されるケースもあった。その後、予告なしに日本軍は現地民に収容所への移動を命じたため、1万人から1万5千人のチャモロ人がグアム中部・南部のジャングルで許可された一部の持ち物のみで収容所へ行進することを余儀なくされた。収容所は粗末で、食料は少なく、衛生設備がなかったため、暮らしは悲惨であったとされる。しかし、結果的には収容所生活を送った人々は日米の激しい戦闘に巻き込まれずに済んだという点で幸運であった。というのも、もし多くのチャモロ人がなお従来の居住地で暮らし続けていれば、アメリカ空軍の苛烈な空爆によって発生する誤爆と満身創痍で抵抗する日本軍の板ばさみにより死んでいただろうからである。

 そして、結局日本軍は負けた。この時期の日米間の戦闘の例に漏れず、日本軍守備隊が降伏を拒否したためほぼすべての日本兵が玉砕した。

 歴史では、グアム島はスペインの植民地に始まり、アメリカ・日本・アメリカに統治され現在はアメリカ合衆国準州となって観光立国で成り立っている。

 住民は、大統領選挙の投票権がないので事実上の植民地という見方もある。観光客は、アメリカ本土より日本や韓国などのアジア諸国からがほとんどだ。

 私は、20歳代後半に会社の上司と同僚とグアム島へ旅行にいった。初めての海外旅行であり、飛行機に乗ったのも初めてだったので、大変新鮮であり刺激的な旅行だった。特に印象に残ってるのは、拳銃を撃てたことだった。

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