ホリショウのあれこれ文筆庫

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第275話 捨て駒になった壱岐島の青年

序文・いつの世も最前線(末端)の兵にしわ寄せがくる

                               堀口尚次

 

 壱岐島(いきのしま)は、長崎県の離島で、九州と対馬の間に位置する。南北17 km・東西14 km程度の大きさの壱岐島は、周辺の小さな島々と区別して壱岐本島と呼ぶ場合もある。

 中世には大宰府権能の消滅に伴い、松浦党倭寇(わこう)〈海賊〉の勢力下にあった。

鎌倉時代中期には、モンゴル帝国とその属国・高麗(こうらい)により、2回の侵攻を受けた。1回目の文永の役の際には、壱岐守護代であった平景隆ら百余騎が応戦したものの、圧倒的な兵力差の前に壊滅して壱岐は占領され、大きな被害を受けた。2回目の弘安の役でも元(げん)軍〈蒙古軍=旧モンゴル帝国軍〉の上陸を受け、大きな損害を受けた。なお、博多湾の日本軍による逆上陸を受け、また台風の影響もあり、元軍は壱岐島から撤退した〈壱岐島の戦い〉。

 真山知幸著の「泣ける日本史」によると、壱岐の守護・平景隆の家臣に宗三郎という青年がおり、元軍が攻めてきた時に景隆より姫を託され、壱岐での戦況を伝えるために九州の大宰府まで遣(つか)わされた。

 壱岐島での戦闘は悲惨を極めていた。壱岐島に来る前に対馬で残虐の限りを尽くした蒙古軍は、対馬で生け捕りにした女性の村民の手に穴を開け、数珠繋ぎにして船の先に立たせ、矢除けにしたのだ。景隆は家族を自害させ、自身も切腹して果てた。島からの脱出を試みた宗三郎は、洞穴などに身を隠す島の女性らが、赤子の泣き声で蒙古軍に見つかるのを恐れて、我が子を殺(あや)めている悲惨な状況を垣間見ている。姫も途中で毒矢が当たってしまったが、宗三郎が介抱しようとする中、自ら短刀で命を絶った。

 命かながら大宰府に辿り着いた宗三郎は、時の執権・北条時宗との対面が許されるが、時宗は蒙古の襲来は知っており、援軍を送るどころか敵の出方を窺(うかが)っていたがけだった。しかも、景隆や壱岐島の村民が悲惨な最期を遂げていることへの労いもなかった。宗三郎はこの時初めて『私たちは捨て駒だったのか!』と驚愕し、落胆したのだった。

 その後の蒙古襲来は、「いわゆる神風〈暴風雨〉」が吹き失敗に終わったことは歴史に詳しい。しかし日本の勝利の陰には、対馬壱岐での語られざる悲劇があったことを忘れてはなるまい。

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