ホリショウのあれこれ文筆庫

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第396話 殉国七士廟

序文・遺骨の奪還に成功

                               堀口尚次

 

 殉国七士廟(しちしびょう)は、愛知県西尾市幡豆町三ヶ根山(さんがねさん)にある廟。東京裁判判決に従い死刑を執行された7名の軍人・政治家を祀っている。高さ5メートルほどの石碑で「殉国七士墓」と彫られており、作られた当時の首相、岸信介の揮毫(きごう)である。7人「東條英機氏〈元首相陸軍大将〉・土肥原賢二氏〈元陸軍大将〉・広田弘毅氏〈元首相〉・板垣征四郎氏〈元陸軍大将〉・木村兵太郎氏〈元陸軍大将〉・松井石根氏〈元陸軍大将〉・武藤章氏〈元陸軍中将〉」の遺骨は実際に碑石の下に埋まっているとされている。 

 東京裁判極東国際軍事裁判〉では、「平和に対する罪」という名目で『A級戦犯』とされた28人の人が「文明」の名の下に裁かれ、七名の方が処刑され、他にも『B級戦犯』『C級戦犯』と合わせて、約1000名の人たちが命を奪われている〈獄死を含む〉。

 GHQが七人の遺体も遺骨も家族に渡すつもりがないことが判明し、なんとか遺骨だけは手に入れたいと考えた人たちがいた。彼らは深夜、七人が火葬された横浜市久保山の火葬場に忍び込み、苦心のすえに遺骨の入手に成功する。遺骨は横浜久保山興禅寺を経て、松井大将建立の熱海伊豆山の興亜観音堂に安置されていました。それから10年あまりが過ぎ、有志の偶然の出会いから三ヶ根山頂に七氏の墓地建設が決まり、遺族をはじめ政財界、その他各方面からの賛同を得て、昭和35年殉国七士廟の完成を見た。

 遺骨の入手状況に関しては、塩田道夫著「天皇東条英機の苦悩」には詳しい記述があるので引用する。「全部の遺体が焼けたのは、一時間半ほど経ってからだった。米兵は、鉄製の鉢の中へ遺骨を入れると、鉄棒のような物で上から突いて、骨を細かく砕きはじめた。それはまさに死者にムチを振る惨い行為であった。A級戦犯の遺骨を奪う計画は小磯国昭大将の弁護人だった三文字正平によって進められていた。このA級戦犯の遺骨が米軍の手から戻されないと、国民が不公平だった東京裁判の結果を認めたことになる。彼らの命令で戦場に駆り出された三百万の英霊さえ、辱めを受けて浮かばれなくなる。暗くなり、頃合を見計らって、三文字弁護士と市川住職は勝手知ったる飛田火葬場長の案内で火葬場の骨捨て場に忍び込んだ。七人の遺骨は全体の一部でありながら、大きな骨壷に一杯分を集めることができた。」と生々しい記述だ。