ホリショウのあれこれ文筆庫

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第448話 天皇に叱責された総理大臣

序文・天皇の機微にふれたか

                               堀口尚次

 

 田中義一陸軍大臣→総理大臣〉は、張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件に際して、国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張し、その旨を天皇にも奏上したが、陸軍の強い反対に遭ったため果たせなかった。

 このことを野党に批判され、立憲民政党中野正剛は、済南(さいなん)事件の責任を福田司令官に帰し、満州事件〈張作霖爆殺事件〉を村岡司令官に帰したことは厚顔無恥(こうがんむち)であるとした。この批判に対して田中は「この如き事に責任を負うたら総理大臣は何万居っても足らぬ」と豪語したところ、中野は「政略出兵の責任を軍部に転嫁するような総理大臣がいたら日本帝国の国軍は何百万人居っても足らないこととなる」とさらに糾弾した。

 軍法会議によって容疑者を厳罰に処すべきと主張していたにもかかわらず、昭和4年6月27日に田中は、関東軍張作霖爆殺事件とは無関係であったと昭和天皇に奏上したところ、天皇「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中を直接詰問した。このあと奥に入った天皇鈴木貫太郎侍従長に対して、「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭(いや)だ」との旨を述べたが、これを鈴木が田中に伝えてしまったところ、田中は涙を流して恐懼(きょうく)〈恐れかしこまる〉し、7月2日に内閣総辞職した。

 狭心症の既往(きおう)があった田中に、張作霖爆殺事件で天皇の不興(ふきょう)を買ったことはやはり堪(こた)えた。退任後の田中は、あまり人前に出ることもなく塞(ふさ)ぎがちだったという。内閣総辞職から3ヵ月もたたない昭和4年9月28日、田中は貴族院議員当選祝賀会に主賓として出席するが、見るからに元気がなかった。そして翌29日午前6時、田中は急性の狭心症により死去した。65歳没。田中の死により、幕末期より勢力を保ち続けた長州閥の流れが完全に途絶えた。

 昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても口を挟まないことを決意した

 余談・タレントのタモリは、生誕時には田中を尊敬していた祖父によって「義一」という名をつけられる予定であった。しかし画数の多い「義」が上に来ると頭でっかちな子になるとされ「一義〈森田一義〉」となったとしている。