ホリショウのあれこれ文筆庫

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第542話 公共性と個人のプライバシー

序文・行政の采配の限界

                               堀口尚次

 

 長野市のとある公園が廃止になることになり、苦情を言った近隣住民や、廃止決定をした行政に対して、様々な意見が出ている。

 行政に苦情を寄せた近隣住民は、公園で遊ぶ子供らの声が騒がしく、更にはボールなどを取りに自宅敷地内に入った子供に庭を荒らされたこともあったようだ。この人の苦悩はこの人にしかわかるまい。コロナウイルスが流行り出した時も、マスク問題などで自粛警察なる輩などが出現したが、得てして「匿名の正義の味方きどりの輩」が現れるのは世の常だ。

 行政が住民の声に耳を傾けるのは、良いことであり、あたりまえのことだ。ただ問題は、住民の意見が別れた時にどっちの言い分を通すかが問われる。しかし行政としては、声の大きい方に〈訴えの重要性が高い方に〉なびかざる得ない現実がありそうだ。特定の政党〈市議会議員〉からの圧力がないともいえない。勿論、行政は中立的な立場をとっているだろうが、それはあくまでも建前であり、大人の事情で公正中立がゆがめられているのが現実だろう。 

 公共性を高めていくことは、社会生活を潤滑に進める上で欠かせない。このことは、人間として社会で生活していく上での、道徳〈マナー〉の向上にも繋がる問題だと思う。それは時には、自分の望むことを我慢しなければならない場面があったり、他者に譲らなけらばならない場面もあろう。そして問題は、公共性と個人のプライバシーがぶつかる場面だ。個人のプライバシーは守られるべきものであり、何人(なんびと)にも侵害されてはならない。

 今回の問題で露呈した、公共性と個人のプライバシーをハカリにかけていいのだろうか。これは、どちらかが重たいのではなく、吊り合わなければならないのだ。では何を持って吊り合ったとするかが問われるが、それは双方が納得できる答えを行政が導き出したかということだと思う。公園は近隣住民の意見に配慮して最終的に公園の撤去を決定したようだが、意見した近隣住民は公園の撤去は望んでいない。また公園で子供たちに遊ばせたい方の大人も、勿論公園の撤去は望んでいない。

 私も当事者ではないので、好き勝手なことが言えるが、実際に担当した行政の方もご苦労されたものと推測する。しいて言うならば、行政が多数の近隣住民を巻き込んでの深い対話が望まれたのではないかと思う。