ホリショウのあれこれ文筆庫

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第599話 フォークの神様・岡林信康

序文・異色のフォークシンガー

                               堀口尚次

 

 岡林信康は、日本のシンガーソングライター。実家は教会で、父親は牧師。熱心なキリスト教信者であったが、実家の教会の不良少女の扱い〈お祈りをさせないなど〉に疑問を感じ「脱出」、その後社会主義運動に身を投じる中で、高石ともやに出会いギターを始める。

 昭和43年、京都で行われた第3回フォークキャンプに参加。同年9月、山谷(さんや)に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコード・デビュー。翌年までに、「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」「くそくらえ節」「がいこつの歌」など、名作・問題作を発表。その内容から、多くの曲が放送禁止となる。当時、岡林とともに高石ともや高田渡加川良五つの赤い風船なども活躍し、プロテスト・フォーク、反戦フォークが若者の間でブームとなった。中でも岡林は一世を風靡し、「フォークの神様」と言われたが、勤労者音楽協議会との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ〈同時期、岡林はすでに直接的なプロテストソングに行き詰まりを感じており、ロックへの転向を模索していた〉などにより昭和44年9月、3カ月余りのスケジュールを残したまま一時蒸発した。書き置きは「下痢を治しに行ってきます」。

 やがて岡林は人や街を嫌い、三重県で農業共同体を営んでいた山岸会を見学し、「ヤマギシズム」に傾倒。自然の環境に身を置こうと岐阜県中津川近くの山村に移り住み、約1年後京都府綾部市の総戸数17戸の過疎村に居を移し農耕生活を始める

 被差別部落に関わるきっかけは、山谷での日雇い労働での経験から来ており、それまで見たことのない人々や社会にショックを受け、地元の滋賀に帰ってから、琵琶湖のほとりでテントを張り、自問自答していく中で、自分の身近にある社会問題に目を向けたところ、それが被差別部落問題だった。そのことから、山谷に行ったり来たりしながら、地元の被差別部落区域でも日雇い労働を経験しながら、部落解放運動にも参加した。そのとき生れたのが初期の傑作「山谷ブルース」「流れ者」「手紙」「チューリップのアップリケ」である。この部落差別をテーマにした曲は、放送禁止歌の代表例といわれるが、放送禁止になっているわけではなく、抗議などを恐れての自主規制・自粛である。