ホリショウのあれこれ文筆庫

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第811話 竹田の子守唄

序文・悲しい過去

                               堀口尚次

 

 竹田の子守唄は、京都府の民謡、およびそれを元にしたポピュラー音楽の歌曲。1970年代にフォークグループ「赤い鳥」が歌ってヒットし、日本のフォーク歌手たちなどによって数多く演奏されている。

 1960年代の後半、うたごえ運動の展開を背景として京都伏見区で採譜・編曲され、初めは合唱曲として歌われた。その後関西フォークの歌手たちのレパートリーとして取り上げられ、「赤い鳥」の歌唱によってその叙情的なメロディーと歌詞とが評判になる。 しかし、歌詞と被差別部落との関係が取り沙汰されるようになると、放送自粛の動きが広まり、「放送で流されることのない歌としてはもっとも有名なヒット曲の一つ」となった

 子守唄には大きく三つの流れがある。「寝かせ唄」、「遊ばせ唄」、「守り子唄」である。「竹田の子守唄」はこのうち「守り子唄」に相当する。 「守り子唄」の成立はさして古いものではなく、明治の中ごろと推察され、民謡や童謡の多くがこのころに成立している。これには、江戸末期から明治にかけて、封建社会から近代資本主義社会へと急速に変化していく過程で、裕福な商家や農家が安い労働力を求めたことに背景がある。貧しい家庭に生まれた少年少女が、期間を定めて丁稚(でっち)や小僧などの下働きや茶つみなどの季節労働、野良仕事、家事などの仕事をこなす「奉公」と呼ばれる労働形態が生まれた。守り子もそのひとつである。したがって、守り子唄には労働歌としての性格がある

 守り子の奉公がなくなれば、守り子唄は歌われなくなるため、第二次世界大戦後には各地の子守唄はほとんどなくなっていた。しかし、被差別部落では就職の困難性から歌の消滅に20年程度の時間差があった。「竹田の子守唄」が発見された1960年代半ばは、日本の子守唄にとって節目だったとも考えられる。

 被差別部落の少女たちは家計を助けるために10歳前後から遠く離れた家に奉公に出され、学校に通う余裕もない中で友達と遊ぶこともかなわず、奉公先で子供を背負いながら労働をこなした。守り子歌には、そうした少女たちがおかれた境遇への悲憤と恨みが綴られているとする。