ホリショウのあれこれ文筆庫

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第926話 五木の子守唄

序文・子供が赤ちゃんの子守り

                               堀口尚次

 

 五木の子守唄は、熊本県球磨郡五木村に伝わる子守唄である。子守唄には子守女がみずからの貧しく恵まれない薄幸な境遇〈年貢代わりに働かされるを嘆き、悲しい日々の生活心情を基盤にこの種の子守唄は伝承されてきている。第二次大戦後レコードに吹き込まれてから大流行したが、地元のものとはやや曲節の違ったものになっている。現在では熊本県を代表する民謡としても知られる。

 日本の民謡や童謡などで、「子守唄」とされる歌には、本来の童話〈子供を寝かしつけるための歌〉と、「守(も)り子唄」と呼ばれる唄とがあるといわれており、五木の子守唄は、守り子唄のひとつである。

 守り子唄とは、子守をする少女が、自分の不幸な境遇などを歌詞に織り込んで子供に唄って聴かせ、自らを慰めるために歌った歌である。かつて子守の少女たちは、家が貧しいために、「口減らし」のために、預けられることが多かったという。

 歌詞には「おどま勧進勧進」という言葉が出てくる。ここに出てくる「かんじん」とは、「三十三人衆」と呼ばれる地主層に対しての「勧進」〈小作人〉という意味で、ここでは「物乞い」「乞食」という意味で用いられている。歌の意味は「私は乞食のようなものだ。〈それにくらべて〉あの人たちは良か衆〈お金持ち、旦那衆〉で、良い帯を締めて立派な着物を着ている」となる。

 伝承によれば、治承・寿永の乱源平合戦〉に敗れた平氏一族が五家荘(ごかのしょう)〈熊本県八代市〉に定着したので、鎌倉幕府は梶尾氏や土肥氏など東国の武士を送って隣の五木村に住まわせ、平氏の動向を監視させたという。その後、これら武士の子孫を中心として「三十三人衆」と呼ばれる地主層が形成され、「かんじん」と呼ばれた小作人名(な)子(ご)小作たちは田畑はもちろん、家屋敷から農具に至るまで旦那衆から借り受けて生計を立てなくてはならなかった。娘たちも10歳になると、地主の家や他村へ子守奉公に出された。五木の子守唄はこの悲哀を歌ったものである。歌詞にある「勧進」という言葉は「流浪の被差別民」という意味を持つため、被差別部落を扱った歌としてテレビ放送を禁止された「竹田の子守唄」と同様の扱いとされていた。